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お念仏を申す生活法話

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命の終わりを望む患者そのとき医師は家族は

2020-12-27
 昨日「命の終わりを望む患者そのとき医師は家族は」
というテーマのテレビ番組を観ました。
 治る見込みのない病気の患者に
延命治療をするかどうかの選択です。
 本人の意思によるものですが
一旦延命治療がなされたら途中で止めることは
死を意味し日本の法律では許されていません。

 テーマの副題は
「京都ALS事件の衝撃命をめぐる葛藤の記録」でした。

 一概にこうだよということではありません。
個々個別の揺れ動く選択重い決断です。
 死と向き合うなかでその人その人の
家族を含めて大きないのちの選択です。

 そしてこれはこの私が引き受けていかねばならない
選択でもあるのです。

 昨日は二人の患者さんのケースで
お医者さんが二人出てまいりました。
 医師としての専門知識をもって
患者さんとしっかり向き合い
相談していくことですが
お二人それぞれに患者さんへの対応の違いを思いました。

 これまでにお医者さんのお話を聞かせていただくなかで
医師は患者の病気を治すことが役割任務で
患者の死は医師の敗北として
死に至らせない治療を最大限施すのが
医師の倫理と受け止められているように思います。

 医者は病気を見て病人を見ないと言われます。
病人を見ていないわけではありませんが
病気を治すことについてはやはり医者は専門家です。
 私たちは全くその病気に立ち入ることはできません。
病気のことは医者にまかせる以外にありません。

 ただこの私のいのちのあり方については
病気になった時だけではなく健康な時も
老いた時も若い時もいつでも
このいのちをそのまま阿弥陀さまにおまかせするのが
浄土真宗の救いです。

 必ず救うまかせよとおはたらきくださっている
南無阿弥陀仏のおはたらきにそのまままかせばいいのです。
確かに確かにまかせられるのです。

 どんなに治療を尽くしても延命したところで
どんな人もこの命を終えていくのです。
 力なく終わるのですが
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま
彼の土に参るべきなりと
阿弥陀さまのお浄土に往き生まれることができるのです。

 延命して生きていればこそ楽しみや喜びがあります。
子どもの結婚孫の誕生に立ち会えます。
 ただ生きていればこそ苦しみ悩むことも多く
自分の意思さえも思い通りにならない事態にもなります。
 わがいのちのあり方について
覚悟をもっての選択です。

 人に生まれて仏法に遇うことの一大事です。
わがいのちのあり方を仏法に聞かせていただきましょう。
 お念仏の先人は
若い時に元気なうちに仏法を聞いておけよといわれます。

 命終わる時が来ます。
それは私のことであり大切な方のことでもあります。
 阿弥陀さまの本願念仏の救いのみ教えを
聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お念仏申すなかに人世を生き抜き
命終わる時阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏に成らせていただき
ずっと南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに
後に遺った方々とも共に生かされて生きていくのです。

 死んだらしまいの命を生きているのではありません。
お念仏申すなかに仏と成るいのちを
今ここに共々に生かされて生きているのです。

 日頃からお念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.27)


煩悩の氷がそのまま菩提の水となる

2020-12-26
 今日の御和讃です。
「無碍光の利益より」で始まります。
 阿弥陀さまのさわりない光明のおはたらきで
煩悩の氷が菩提の水になると
阿弥陀さまのお救いを讃えられます。

 お正信偈さまの中に「不断煩悩得涅槃」とあります。
浄土真宗のご法義の特徴です。
 煩悩を断ぜずして涅槃と得るなりといいますが
そのお心を取り間違えて
煩悩を断ぜずして涅槃を得るとは悟りを開くということで
もう私はすでに悟りの仏に成っていると聞かれた方がいて
それは即身成仏という仏教の他宗派の教えなのです。

 即身成仏とはこの身この世で仏に成るということです。
浄土真宗のご法義は
私たちは煩悩をずっと抱えて生きる煩悩具足の身なので
この身この世で仏に成ることはかなわないというのです。

 どこまでも固く冷たい煩悩の氷です。
ただ縁あって私たちは阿弥陀さまの無碍光のお救いに
遇わせていただいて
そのままお念仏申す身にさせていただいているのです。

 煩悩具足の凡夫の身がお念仏申す身にさせていただいて
必ず煩悩の氷が解けて菩提悟りの水になるというのです。
 阿弥陀さまのお仕事南無阿弥陀仏のおはたらきです。
だから確かなのです。
だから頼もしいのです。

 氷の私がどんなに頑張っても氷は氷のまんまです。
仏さまのような心を起こすこともあるかもしれませんが
どこまでも自己中心に生きる愚かな煩悩具足の凡夫です。
 欲の心怒りの心愚かな心を持ち合わせたこの私を
そのまま必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私と共に生きてくださる阿弥陀さまなのです。

 この身この命はいつか終わりが来ます。
その時そのまま必ず菩提の水にさせていただくと
今聞かせていただくのです。

 死んでから後聞くのではありません。
今聞かせていただく今の救いなのです。

 毎朝こうしてお正信偈さまとご和讃を拝読し
親鸞さまのお心を聞かせていただいて
お念仏を申す身にさせていただいた喜びいっぱいに
今年もあとわずかになりましたが
一日一日を大切に生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.26)


思い上がり驕りの心

2020-12-25
 昨日安倍前首相の記者会見がありました。
桜を見る会の前夜祭の件で
国会で何度も虚偽の答弁を繰り返したことの説明です。

 前夜祭の経費を安倍さんの事務所が補填していたことで
秘書が略式起訴され安部さんは知らなかったということで
不起訴になりました。

 昨日の記者会見をみて思ったのは
安倍さんが何回もメモを見て発言し
言い間違えることもあったことです。
 首相当時の記者会見ではなかった光景です。
まっすぐ前を向いて自信たっぷりに堂々と発言し
国会審議では野党の質問者を恫喝するかのような
強弁ぶりでしたが
8年近く長期にわたった安倍政権のあり様を思い出して
人間の驕りということを思います。

 安倍さん一人のことではなく
この私のことです。
 驕りの心は長く同じ環境に居るなかに
沁みついてくるようなものです。
 自分が置かれた地位や役職といった立場に居座って
公的な感覚が鈍り私的な振る舞いが当然のようになり
周りの者が忖度することが当たり前のようになって
何でも自分の思い通りになるように思ってしまう
驕りです。

 私でいったらお寺の住職であり
僧侶お坊さんということです。
 自分勝手な住職像僧侶像を作り上げて
周囲のみんなが自分が思うように見てくれているという
思い上がり驕りです。

 逆です。
そうした役職地位にあるからこそ謙虚に責任をもって
つとめなければならないということです。

 自分のありのままの姿を見せてくれる鏡をもつことです。
仏法お念仏のご法義の鏡です。
 ナモアミダブツとお念仏を申す南無阿弥陀仏の鏡です。
仏さまのお心にかなうようなことをしているかな
ということです。
 それこそ仏さまのお心から背を向けて
逃げ回っているような私たちではないでしょうか。

 阿弥陀さまはそういう私が心配でいつも見てござって
南無阿弥陀仏とおはたらきなのです。
 ありのままの私を知らしてくださって
そのまま救うてくださる仏さまです。

「まかせよ救う」とおはたらきですから
阿弥陀さまのお心に甘えてまかせればいいのです。
「おまかせします阿弥陀さま」と阿弥陀さまにお礼をして
私にできるご報謝を精いっぱいさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.25)


サイレントナイト

2020-12-24
 コロナ禍で最近特に医療関係者の発言が
際立ってよく聞こえてきます。
 政府が勝負の三週間と強調したにもかかわらず
感染者は今も増え続けついにGOTOトラベル停止に
踏み切りましたが
これから年末年始にかけてが
本当の真剣勝負の三週間と言われます。

 何か言葉ばかりが躍るといった感じもしますが
年末年始は今年は静かに家で過ごしましょうと
感染防止の喚起を促すということです。

 今日はクリスマスイブです。
いつもでしたらイルミネーションに美しく飾られた街に
繰り出して賑やかに過ごす人も多いことですが
今年は家で静かにサイレントクリスマスが言われます。

 イブはイブニングを略した呼び方で夜という意味です。
クリスマスの前夜祭という言い方をしますが
クリスマスの夜のミサです。

 仏教にも逮夜というお勤めがあります。
お寺の法要は逮夜から日中までの一昼夜のお勤めが基本で
親鸞聖人の御正忌報恩講の法要は
ご本山西本願寺では毎年1月9日の午後の逮夜から
御命日の16日の午前の日中まで七昼夜お勤まりです。

 一昼夜を通して思いを一つにする仏さまの法要で
お逮夜の午後から次の日の午前中丸一日のお勤めです。
 今皆さんのお家にお参りする月参りは
円光寺では大抵お命日にお参りしていますが
命日の前の日をとってお逮夜参りというところもあります。
 25日に亡くなられたお命日の方の
お逮夜は24日になります。

 クリスマスイブです。
今年はまっすぐ家に帰ってサイレントナイトで
ゆっくり過ごすのもいいのではないでしょうか。

 クリスマスで今年もあと一週間です。
今さらバタバタ何をするといった用事もありませんが
この一年を振り返り次の年に備えて
お念仏を申して日々の営みをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.24)


大掃除をしました

2020-12-23
 年末の風物詩に大掃除があります。
畳をあげて外に出し埃をはたくといった
一年一度の大掛かりな大掃除です。
 大掃除の日を予め決めて家族みんなで協力して
一年の埃や塵をとりはらい
新たな気持ちで新年を迎えようということです。

 今は大掃除といっても畳を出してという光景を
見かけることがなくなりましたが
年末のこの時期皆さんのお家お家それぞれのやり方で
大掃除をされることだと思います。
 わが家も昨日大掃除の真似事をしました。

 掃除ということについて
お釈迦さまの十大弟子の一人周利般特(しゅりはんどく)の逸話です。
 自分の名前も忘れてしまうほど物覚えが悪い周利般特は
修行をやめる決意をしお釈迦さまのもとに行ったとき
お釈迦さまは一本のほうきを手渡し
「掃除をしながら『塵を払い垢を除かん』と唱えよ」言われ
周利般特は言われた通りに何年も何年も長い間
「塵を払い垢を除かん」と唱えながら掃除を続けて
自分自身の心に積もった塵や垢に気づき
それらを捨てて離れることによって悟りを開いたそうです。

「塵を払え垢を除かん」と掃除をして
その時はきれいになりますが
塵や埃はまた後から後から出てきます。
 そしてまた掃除をするのです。
その繰り返しです。

 私たちの心の有り様です。
仏法を聞いてその時は身を煩わし心を悩ます
煩悩がなくなり清らかな心になったように思いますが
すぐさま後から後から新たな煩悩が次々と湧いてきて
わが身を煩わしわが心を悩まし続けるのです。

 欲の心怒りの心愚かな心の煩悩を持ち合わせた
この私の有り様を見抜かれた阿弥陀さまは
煩悩具足の凡夫をこそ必ず救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださってあると
聞かせていただきます。

 私たちの日常です。
縁にふれれば何をしでかすか分からないこの私が心配で
阿弥陀さまはすっとお立ちになって
私のところに南無阿弥陀仏と来てくださり
必ず救うとおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のお心を聞いてくれよと
お念仏申すところに喚び続けているのです。
 ナモアミダブツとお念仏を申して
日々の生活をさせていただけよというのです。

 ナモアミダブツとお念仏申して
煩悩の心がなくなるのではありません。
 煩悩具足の凡夫の身はそのままですが
この身を案じ思うてくださり
そのまま救うと阿弥陀さまがご一緒くださり
命終わる時そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれさせ
さとりの仏さまにしてくださるのです。

 お念仏申すなかに仏にさせていただくいのちを
今生きていることを聞かせていただきましょう。
 お念仏を申してくれよお念仏を聞いてくれよと
南無阿弥陀仏のお喚び声が聞こえます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.12.23)


円光寺
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