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お念仏を申す生活法話

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気になる言葉

2023-12-09
 毎日の生活の中で
私たちはさまざまな言葉に遭遇します。

 そのなかに心の琴線に触れる言葉があります。
すぐメモに取ることもできず
頭の中を通り過ぎてしまいます。

 何だったかなと振り返っても
断片的に思い出す語句はあっても
言葉となってつながりません。
 思い出そうにも思い出せない
もどかしさと悔しさが残ります。

 先日亡くなった
脚本家山田太一さんの言葉です。
 テレビのニュース番組でその人となりを振り返るなかで
「生と死」について
自身の著書の中の言葉が紹介されていました。

 すてきな言葉だなと思って
ネットで確認しようとしますが出てきません。
 今は番組の見逃が配信があるということで
さっそくアプリを設定してもらい
一週間前の放送を見直すことができました。

「死」というものがあるから
生きていくことが大切に思えるわけです。
「死」というものは決して「生」の対立物ではなくて
すごく「生」を豊かにしてくれるものだと
いうふうに思っています。
              (山田太一さんの言葉)

 生と死という対立したいのちの見方ではなくて
紙の表裏のように生死のいのちと見ていくところに
豊かな死があり生があるということです。

 現代という時代社会に生きる人たちのドラマを描いた
山田太一さんの真摯ないのちの視点であり
生死を超えた仏教のいのちの見方に
通じるものだと聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.9) 

成道会とは何ですか? ※転載

2023-12-08
 お釈迦さまは35歳のとき
12月8日インドのブッダガヤで
さとりを開かれ、仏陀(ブッダ)に成られたと
伝えられています。

 12月8日に成道会が行われるようになったのは
このことに由来しています。

 仏陀とは、「さとった者」「真実にめざめた者」
という意味です。

 お釈迦さまが仏陀に成られたことを
さとりの道が完成(成就)したということから
「成道」といいます。

 お釈迦さまは真実をさとられただけではなく
その内容をお説きくださいました。
 お釈迦さまが伝道されたからこそ
私たちは真実に出あうことができるのです。

 お釈迦さまは、真実を自分で考えたり
創りあげたりして発明したわけではありません。
 真実をさとったということは
真実を発見されたということであり
その真実を言葉として説法されたのです。

 浄土真宗では
お釈迦さまの説法は
すべてのものを救う阿弥陀如来のはたらきを
説くためのものであったと考えます。

 親鸞聖人は
真実である「南無阿弥陀仏」を説くために
お釈迦さまはこの世に現れてくださったと
述べられています。

        (前田壽雄著『仏事Q&A』より)

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.8)

迷い道ウロウロ

2023-12-07
 門徒報恩講のご縁で
少し遠方のお家2軒に車でお参りしました。

 昭和30年から40年代にかけて
大分市の新産業都市計画により
小高い山を切り開いて開発造成された団地で
家々がぎっしり詰まるようにあります。

 いつもは別々の日にお参りしている2軒のお家で
それぞれいつもの道を通って行きます。

 この日は2軒同じ日にお参りするということで
一軒のお家のお参りが済んで
次のお家に行くのに近道をしようと思って
元来た道を戻らずに初めて通る道を行きました。

 ここは右や左やと
自分勝手に判断して行くのですが
同じような家が建ち並ぶ所を
行ったり来たり行き止まったりして
ついに迷ってしまいました。

 まさに迷路です。
目印になるものもなく
ただ自分の勘だけに頼る始末で
結局はナビにお願いして
事無きを得ましたが
ちょっと不安な気持ちになりました。

 何も確証がないのに大丈夫何とかなると思う
自信過剰な私がいます。
 こうして何か問題に遭遇したときも
「自分のことは自分が一番よくわかっている」と
周りのアドバイスを素直に聞かないで
いよいよ窮地に追い込まれることってありませんか。

 道に迷うぐらいならと思っても
人生の道に迷ってしまったら大変です。
 一度っきりの人生です。
後戻りはできません。

 人生の道行きで今を生きるということですが
今どこにいるのか
どこを目ざして生きているのか
わからないと
行き当たりばったりの人生になってしまい
迷って不安になることも多くなります。

 私たちは本当に自分のことが
よくわかっているのでしょうか。

 ちょうど自分の顔を自分の目て
直接見ることができないように
自分のことは自分が一番わかっているようで
本当のところはわからない
顔に付いたご飯粒も
周りの人に指摘されて知らされることです。

 教えてもらえばいいんですね。
そして素直に聞けばいいことなのです。

 この人生どう生きるのか
どこに向かって生きるのか
私の人生の道行きを仏法に聞かせていただきます。

 阿弥陀さまがこの私を救うと誓われ成就された
南無阿弥陀仏のお心を聞いて
お念仏申して往生浄土の人生を歩むことだよと
本願念仏のお救いの仏法に遇うために
この人間界に生まれてきたんだよと
仏さまは教えてご一緒くださっているのです。

 今日も一日お念仏を申して
「いつも私が一緒だよ。われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.7)

雨で良かった、悪かった?

2023-12-06
 昨日は久しぶりの雨になりました。
この時期冷たい雨ですが
農作物をつくる人には
恵みの雨になったのではないでしょうか。

 今日お参りした先のお家で
お勤めの後にお茶をいただきながら
「昨日の雨は久しぶりで良かったですね」と
言って話になりました。

 少しお話をするなかで
昨日は老人会の集いがあって
いろんな催しがありお昼ご飯もいただいて
楽しかったですということを聞きました。

 月に一度のご縁で
一人暮らしのお家の方にとっては
待ち通しく楽しみにしていることです。

 昨日は雨でした。
会場の公民館まで歩いて行くのに雨です。
「雨で良かったですね」と言ったことを思い返し
少しバツが悪かったようなことでした。

 あいにくの雨の天気で
困ったことだったと思います。
 それでも「雨が降って大変でした」と言うのではなく
「昨日は本当に楽しかった」と何度も言われました。

 私たちは何かにつけて良い悪いという言い方をしますが
その人人にとって良いも悪いもそれぞれなのですね。
 何が良くて何が悪いのか
良いも悪いもある中に
今日一日の日暮らしがあるのですね。

 雨の日は雨の日で
老人会の楽しいご縁になりましたと
有難くいただいて
本当に良かったですね。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.6)

永遠の今を生きる

2023-12-05
 12月に入ってこの時節の挨拶に
「一年が本当に早いですね」と言葉を交わします。
 年々時間が早く過ぎ行くといった実感です。

 私の子どもの頃も若い時分もそして71歳の今も
時間の長さは同じなのに
何で早く感じるのでしょうか。

 今まで生きてきた時間を分母にした
今という分子でいうと
確かに年々日に日に数字は小さく短くなっていきます。

 どこまで短くなるかといって
この命終えるときが来ますから
最終的にはゼロになるのでしょうか。

 ゼロということでいったら
死んだらお終いということなのでしょうか。
「一年が本当に早いですね」という言葉に
私たちは命終わる時が愈々近づいていることを
不安に思って言っているのでしょうか。

 私たちの救主・阿弥陀如来は
無量寿無量光の仏さまです。
 南無阿弥陀仏となって
いつでもどこでも「われにまかせよ必ず救う」と
私に寄り添いおはたらきです。

 南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただきます。
 限りある人の命を生きていることに
変わりありませんが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
命終わるとき浄土に生まれて
無量のいのちの仏さまに成らせていただくと
聞かせていただきます。

 最期は滅んで無くなってしまう命を
生きているのではなく
無量の永遠のいのちを生きているのです。
 
 歳を重ねるなかで時の過ぎ行く早さを感じますが
大丈夫そのままお浄土への道すがらを歩む日々であり
無量のいのちを分母とする今を生きているのです。

 今日も一日お念仏を申して
永遠の今を生きて往きましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.12.5)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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