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お念仏を申す生活法話

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二七日のご縁です

2024-01-23
 母が往生して二七日のご縁です。
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さです。
 
 先にお浄土に往かれた方は
今は仏さまとなって私たちの世界に還って来て
私たちを護り救う
南無阿弥陀仏のおはたらきをしてくださっていると
浄土真宗のみ教えを聞かせていただきます。
 
 仏教は仏の教えです。
2600年ほど前にインドにお生まれになった
お釈迦さまが開かれました。

 仏というと
死者を連想される方が多いと思いますが
仏とは覚者という意味で
真実ありのまま本当のことを覚られた方をいいます。

 真実に目覚めるということですが
覚者の仏さまから見た私たちは
真実に目覚めていないと教えます。
 そしてこの私を真実に目覚めさせるのが
仏さまなのです。

 仏教には
真実に目覚めることなく迷いの境涯にあるこの私を
覚りの仏に成らせる成仏道が説かれているのです。

 目覚めるというと
私たちは朝起きて目が覚めますね。
 この私の目ですが
仏さまはこの私の目に問題ありというのです。

 この目で私たちはものを見ますが
私が見るものの見方は
どこまでも自分中心で自分の都合に合わせて
ものを見ていると教え
そこに苦しみ悩み迷いの原因があるというのです。

 3人のお友だちが集まって
その中の二人が「あの人」の話を始めます。
 一人はあの人は「良い人だ」と言い
もう一人は「悪い人だ」と言います。
そしてその話を聞いていたあとの一人は
「あの人って誰のこと?」と言います。

 「あの人」は同じ人ですが
見方によって「良い人」「悪い人」「関係ない人」と
それぞれ違います。
 ただ共通しているのは
三人ともそれぞれ自分の都合で見ていることです。
 だから「あの人」を見る同じ人の目も
「良い人」から「悪い人」にくるっと変わるのです。

 自分の都合自分中心のものの見方に執らわれ
真実ありのまま本当のことが見えないで
小さな世界に固く閉じこもり
自分の思い通りにならないことに腹を立て
苦しみ悩みを募らせるのです。

 煩悩をたぎらせ苦悩の境涯を生きている
私たちを見抜かれた阿弥陀如来は
すべてのものを分け隔てなく必ず救うと
ご本願をたて成就して南無阿弥陀仏のおはたらきで
この私を浄土に生まれさせ仏にさせてくださるのです。

 私たちの仏教を浄土真宗といいます。
本願念仏のお救いの教えを聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.23)

自分の都合で付いたり離れたり

2024-01-22
 自民党の政治資金パーティの裏金問題は
検察庁特捜部の一応の捜査終結をみましたが
諸悪の根源と目される
自民党の派閥の解散が大きく取り上げられています。

 大きな組織の中にそれぞれのグループができて
権力闘争の構図です。
 派閥の利権は「カネと人事」といわれます。
有力者のいる派閥に属することで
カネと人事の面倒を見てもらおうと派閥に入り
パーティ券の販売に奔走した結果の事件です。

 政治家の本分を忘れた本当に情けないことですが
これは政治の世界自民党だけのことではなく
こうした社会の構図は
私たちが属する身近な組織でも見かけることです。

 「寄らば大樹の陰」「長いものに巻かれよ」と
昔から大きなグループの有力リーダーに身を寄せるのが
私たちの世渡りの術ですが
そのグループ内でもまたグループができて
自分の都合で付いたり離れたりの人間関係です。

 親鸞聖人は
「弟子一人ももたず候」(歎異抄)と
お念仏の仲間を御同朋御同行と敬い
生涯お寺を建てなかったといわれます。

 お寺も一つの社会組織です。
組織を運営するには経費も要りますし
それぞれの役割分担が機能してのことです。
 お寺もやっぱり「カネと人事」かということですが
南無阿弥陀仏の中心をいただくことで
依るべき処帰る処があるのです。

 人と人とが向き合う中には
互いに思い通りにならない不平不満が出てきて
そこに「付いた離れた」という関係が生じます。

 お念仏のともがらの関係は
南無阿弥陀仏のご縁つながりです。

 わが弟子ひとの弟子という関係ではありません。
「つくべき縁あればともなひ
はなるべき縁あればはなるる」(同上)と
お互いの顔色を気にすることなく
お念仏申す生活をさせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.22)

 

「阿弥陀さまのお救い」 ※転載

2024-01-21
 あるご門徒さんが次のようなことを言われました。
「私が、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏したくらいで
本当に阿弥陀さまはおたすけくださるのですか?」と。

 浄土真宗のみ教えは「私が称えたお念仏」に
手柄や値打ちを見ていくのではありません。
 「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら
「ようこそ、ようこそ
阿弥陀さまのご苦労のおかげがあればこそ
私をお念仏する者に育てあげてくださいました」と
よろこばせていただくのです。

 私のお念仏を通して阿弥陀さまのおはたらき
お育てを味わっていくのです。
 ですから「称名念仏」は阿弥陀さまのおはたらきであり
お喚び声そのものです。

 毎日の日暮らしの中で
私の気持ちはちょっとしたことで
フラフラと揺らぎますが
揺らぐことのない阿弥陀さまが私のために選び取られた道が
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏しながら
阿弥陀さまとともに生きる日暮らしです。

 「必ず、往生させていただける」というのは
自分が決め、思い込むのではありません。
 阿弥陀さまが「あなたを必ず往生させますよ。
あなたの往生は間違いないよ」と
「南無阿弥陀仏」のお念仏を通して
告げてくださっているのでした。

 私をお救いくださる阿弥陀さまの大慈悲のお心には
「本当にあなたを救うことができるだろうか?」。
「これで大丈夫かな?」などという疑いのお心は
微塵たりともまじってはいません。
 私を救うことにまったく疑いがありません。
これが阿弥陀さまのお心であり、おはたらきです。

 私が私の疑いや不安をなくすのではありません。
阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」お念仏を通して
「あなたを救うことに、一点の疑いも持っていないよ」と
告げてくださっているのです。
 ですから、私のほうで「大丈夫かなあ?」と
心配する必要はまったくありません。

 私をたすけてくださる阿弥陀さまに
疑いが微塵もないのですから
たすけられる私が疑ったり、心配する必要はありません。

 「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら
阿弥陀さまの「間違いのない」お心を聞き味わう
日暮をおくらせていただく。
 阿弥陀さまが私のために選びに選び抜いて
与えてくださったお念仏の道であり
私に最もふさわしい、安心できる道なのですから。

      ※三宮亨信師『イイね浄土真宗!!』
            (『めぐみ』2023年冬号)より

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.21)

お仏壇のレンタルという提案から

2024-01-20
 現実生活における仏事のあり方について
昨日のお話の続きです。

 ご門徒さんから
お仏壇のレンタルという提案をいただきました。
 
 今住まいするお家にお仏壇を安置することについて
先祖代々伝わる親の家の仏壇は大きすぎて入らず
今の家に合った仏壇を購入しようにも
経費がかかり次の継承のことを考えると
今のお家限定のお仏壇のレンタルは
できないものかとの提案です。

 お仏壇をお家の中心に安置することの意味を踏まえつつ
先祖伝来の仏壇に固執することなく
その家に合った仏壇をレンタルすれば
仏壇じまいをして仏壇を処分しなくてすむといいます。

 レンタル仏壇の収納や管理のあり方など課題も多く
すぐできるような話ではありませんが
レンタルという発想に注目です。

 借りものです。
所有するのではなく使用するのです。
 借りたものは使用目的や使用期間が済めば
返せばよいのです。
 
 お遺骨を安置するお墓や納骨堂も
所有するのではなく使用させていただくことです。

 <〇○家之墓>というお家のお墓ですが
納骨されているお遺骨は三代四代前からのお方です。
 使用者が遠方に居るとか継承者がいないなどの事由で
墓じまいをされるお家が多くなりました。
 墓じまいをして墓石を処分し
墓地を更地にして管理者に返します。

 墓石の処分にかかる経費などを考えると
納骨堂形式のお墓で一定期間使用できる納骨のあり方も
一つの提案だと思います。

 それぞれのお家家族のあり方が異なるなかで
お仏壇やお墓のあり方も様々な選択肢が考えられます。
 どうぞお寺にご相談してください。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.23)

現実生活における仏事のあり方

2024-01-19
 私たちの生活に身近な浄土真宗の仏事について
ご門徒有縁の皆さんにお話をするなかで
「言われることはお念仏の先人の生活であって
今の私たちの現実生活に合っていないのではないですか」
と言われました。

 浄土真宗の仏事のあるべき姿の
理想と現実とのギャップです。

 浄土真宗の教えに依るところの仏事であり
仏事のご縁を通してお念仏聴聞を
皆さんにお勧めするものですが
私たちが生きている現代社会にあって
仏事のあり方を見直すことも必要ではないかとの指摘です。

 戦前までの家制度に立脚した家族観
家庭生活のあり方と
今はすっかり変わってしまったということです。
 親子孫の三世代が同居する大家族から
今は親子孫それぞれが家を持つ核家族になりました。

 浄土真宗の仏事でいえば
家の中心に阿弥陀さまのお仏壇があって
家族みんながお仏壇におまいりする生活をしていました。
 ところが今は親の家には仏壇がありますが
子や孫の家には仏壇はありません。

 私のような戦後生まれの子の世代は
日常仏壇にまいる父母や祖父母の姿を見て育ちましたが
孫の世代は親の家に帰郷した時に
仏壇にまいる父母の姿しか見ていません。
 仏壇は私たちの日常生活からすっかり切り離された
特別な存在になっているのです。

 そして今、親の世代が亡くなっていくなかで
親の家にのこった仏壇をどう継承していくのかが
問題になっているのです。

 親の家から子や孫の家に仏壇を移すにも
現代の家の形態をみれば
大きな仏壇はそのまま入りません。
 家に合った仏壇を新調したりして
今住まいする家に仏壇を安置できても
次の継承者の問題が残ります。

 お墓の継承とともに大きな課題で
家の跡取りがいないとか他家に嫁いだ娘ばかりでと
今から仏壇やお墓の処分まで心配になるといいます。

 家制度の大きな基盤のなかに
先人のお念仏を申す生活があって
「念仏の声を子や孫に」と
お念仏の声が私のところに届けられました。

 家のお仏壇を中心にした
浄土真宗の仏事が変わっていくなかで
お念仏のみ教えをどう次の世代に伝えていくのか
ご法義を大事に思ってくださる皆さんの問題提起です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.19)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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