本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

人生100年時代を生きる

2024-01-28
 NHKの朝のニュース番組で
「人生100年時代をどう生きる」をテーマに
高校生と考える特集を観ました。

 まず「これから80年後を想像してください」
と言われて高校生は
「友だちがいて健康であれば人生を大いに楽しみたい」
「チャレンジする時間が延びるということで
失敗してもやり直せることが増える」
「人生60年だと短いから、今できることをやろうと
今を生きることに注力できる」などと答えます。

  80年後なんてとても想像できないと思いますが
『人生100年時代の人生戦略』の英国の著者は
16歳の高校生から考えることが大事だと強調します。

 先の著者は
今の高校生の親世代は「教育」「仕事」「老後」という
人生の三つのステージを生きてきたが
今の高校生の世代が生きる人生100年時代は
違うといいます。
 仕事を定年退職した後の人生などということではなく
健康と貯蓄を確保しつつ
働き続けねばならないというのです。

 そこで有形資産であるお金も大切だが
無形資産も同じくらい大切だと理解することの重要性を
次のように言われます。

 無形資産とはお金で買えないもののことで
①常に新しいことを学び続けること
②心身ともに健康であること
 肉体的にも健康で友人をもって
 精神的にも活力をもつこと
➂変化に向き合うこと
 新しいものに対して開かれた心をもつことの三つです。

 そしてこの無形資産の重要性を
高校生にきちんとなるべく早く伝えるべきだと言います。

 この三つの無形資産は
すべて時間に関わっています。
 新しいことを学ぶには時間が必要です。
健康にいるにも新しい友人を理解するにも
本当に時間がかかります。
 無形資産を築くことは
自分の時間をどう使うかです。

 若いうちから「人生をどう生きるのか」
「自分にとって何が大切か」
考える習慣を身につけることで
よりよい無形資産を築くことができます。

 AIの登場で変化の激しい今の時代だからこそ
真剣に考える必要があるのです。
 生成AIが私たちの仕事や考え方を変えているからこそ
高校生が今本当に問われているのは
人間性をどう育てるかということです。

 「人間とは何か」「機械とは何が違うのか」
自分に問わなければいけません。
 私たちはみんな感情を持ち
お互いを理解することができます。
 そして創造的でもあります。
何がベストか判断することもできます。
 これは機械にはできないことです。

 そこが人生100年時代の
教育のポイントかもしれません。
 今後80年の間に
予想外の出来事がたくさん起こると思います。
 生成AIを予測していなかったように
こうした飛躍的な発展はまだまだ出てくるでしょう。
 ですから今の若い人には
未来にはワクワクすることがあると考えてほしいのです。

 以上の発言を聞いて
長い人生において有形資産であるお金の心配は
避けて通れないが
それと同じくらい長生きの時代に
無形資産が大事になると
著者は伝えたいのではないかという感想です。

 無形資産について学んだ生徒の感想は
〇お金だけで解決できるものには限りがあり
 有形資産だけでも無形資産だけでも
 幸せになるのは難しい。
〇二つは密接に関係しており
 無形資産は外から見えないものだが
 若いうちから心がけて磨きあげたい。

 スタジオでは
〇30代後半になってライフステージが変化したと感じる。
 今の自分と変化にしっかり向き合って
 これからの人生何を大切にしたいか
 今一度立ち止まって考えたいと感じた。
〇与えられたモデル通りには生きられないが
 ワクワク楽しみながら自分で選択して
 人生をつかみ取って行くという
 メッセージでもあると感じた

 私の感想です。
人生を豊かに生きる無形資産ということで
仏教に学ぶことの大切さを思いました。

 仏教に学ぶということについて
定年後老後の趣味のように思われている感じがありますが
仏教は「今を生きる」というテーマに
十分応えられる教えです。

 定年後とか高校生とかに限らず
今を生きる私たちそれぞれの人生において
仏教に学ぶことが大事です。

 人生そのものに向き合い考えることは
時間も必要だし仕事をしながらでは
大変制約があって難しいと思います。
 それで仕事を終えて時間ができてと
いうことになってしまいますが
社会に出る前の時間に
仏教に学ぶことの意義は大きいと思います。

 『君たちはどう生きるか』のコペル君は
15歳の中学2年生でした。

 本願寺出版社からも
『13歳からの仏教』『高校生からの仏教入門』などの
中高生向けの仏教書が出版されています。

 まだまだ早いではありません。
仏さまのご縁はいつでもどこでも誰にでもです。
 今こここの私に仏さまのご縁は
届けられているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.28)

自らの名乗り

2024-01-27
 末期がんで重篤な患者が
「私は〇○です」と
自ら重要指名手配者だと名乗ったといいます。

 1960年後半から全国で大学紛争が吹き荒れ
日本赤軍のあさま山荘事件など
社会を震撼させる衝撃的な事件が続発するなかで
1974、75年に連続して起きた過激派集団による
企業爆破事件の容疑者の一人です。
 
 東京都心の日本を代表する大企業のビルが爆破され
通行人や多くの人が負傷し亡くなるなど
衝撃的な爆破現場のニュース映像が
今も鮮明に残っています。

 70歳といいますから私とほぼ同い年です。
 当時私も大学生で
国家社会権力に反発する風潮があるなかで
その時代を生き
そして同じ時代社会を生きてきました。

 指名手配されて以来
警察や駅などの公共の機関には
その顔写真がずっと貼られ続けられてきました。

 49年に及ぶ逃亡生活です。
名前を偽り身を隠し住居や職業を転々として
不自由な生活を送ってきた中で
最期を覚悟したのでしょうか
「死ぬ時くらいは本名で死にたい」と
言ったそうです。

 その心境やいかがなものかと思います。

 このままじゃ死ねないと思ったのでしょうね。
偽名でずっと生きてきたが
私は私と、私の人生の意味を思ったのでしょうか。

 人の死は名前とともに公に周知されますが
実際に死んでもずっと写真が残ることに
いたたまれなかったのでしょうか。

 人の死という人生の区切りです。
人と生まれた以上はどんな人も死んでいきます。
 最期は自分がしたことに
自分で始末をつけたかったのでしょうか。

 たとえ死んでも自分がしてきたことは
消えて無くなるものではありません。
ずっと事実として後世まで残ります。

 決して死んだらしまいではないのです。
自分の都合の良いようにはいきません。

 浄土真宗は死んだらしまいの教えではありません。
南無阿弥陀仏のおはたらきで
お念仏申す身にお育ていただき
命終えて阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏にさせていただく教えです。

 死んだらしまいではなく
仏となってこの世に還り来て
迷いの衆生を救うというのです。

 法名「釋〇○」の仏さまです。
法名は死んでから後の名前ではありません。
 生前にいただくことができる
お念仏のみ教えに生きる者の名乗りです。

 俗名はこの世の中を生きる仮の名前で
無量のいのちを生きる法名こそが本当の名前
本名なのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.27)
 

あなたも私もみんな光の中

2024-01-26
 京都アニメーション放火殺人事件の裁判員裁判で
京都地裁は被告に「死刑」の判決を言い渡しました。

 36人が亡くなった凶悪事件で
被告本人も罪状を認めていることから
求刑通り「死刑」が予想されていましたが
弁護側は心身喪失で刑事責任能力がなかったと
「無罪」を主張していました。

 2019年7月の事件から4年半が経ち
初公判から143日目の結審です。

 長い時間が過ぎ行く中で
懸命の手術治療で命助かった加害者から
事件に至るまでの真相の詳細は語られず
被害者家族有縁の方々の思いは
「何でどうして」と
今も悶々として大切な人の死を受け入れ難い
心情に変わりはないといいます。
 
 死刑判決が出たところで
死刑が執行されたところで
大切な人はかえってきません。
 その無念悔いやるせなさは
いつまでも尽きることはないでしょう。  

 判決文には被告の生い立ちから
これまでの人生の歩みが書かれていました。
 親の離婚貧困虐待と人間不信が強き
社会から孤立していくなかで
妄想思い込み等の不安定な精神状態が記されていますが
私たちが共に生きる現代社会の闇を思います。

 闇は光によって破られますが
闇の中にいると闇が闇とはわからないままに
自己中心の思いだけに執らわれ生きることで
自暴自棄になってしまう
縁があれば私たちもその一人になりかねない
深淵な心の闇です。

 光に遇うことで闇が闇と知らされますが
闇と気づく
もうそこは光の中です。

 無明の闇に生きる私たちを
阿弥陀仏は光明を放って救ってくださると
お念仏のお救いを聞かせていただきます。
 あなたも私もみんな
阿弥陀さまの智慧と慈悲の光明の中に
共々に生かされて生きているのです。

 この社会を共に生きる私たちです。
お念仏のみ教えを聞かせていただき
私にできることをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.26)

知識と智慧

2024-01-25
 仏教は智慧の宗教といわれます。
智慧とは「如実知見」といって
真実ありのままの姿をありのままに見ることのできる
仏さまのさとりの眼です。

 一方私たちはこの世に生まれてこの方
多くの人と出会い関係するなかで
先人先輩から知識を習得積み重ねることで
この人生を生きてきました。

 知識はこの社会を生き抜く依り処となって
私を支えてくれますが
ものを知った分かった判断したと
その量が問題となり、智者と愚者を分別し
知識を誇るあまり、自らの立場に固執することになります。

 また、すべてのものを対象的に見ることで
「人間はすべて死ぬ」という知識は持っても
「自分が死ぬ」とは思えないような見方にもなります。

 仏法は知識の量を問題にすることはなく
むしろ仏法の妨げにさえなることもあります。
 
 知識を誇り自分の考えだけが正しいと考える
「邪見」であり
その量をほこる「憍慢(きょうまん)」です。

 仏の智慧とは
邪見や憍慢という自己中心にものを見る
一切の執らわれから解放されて
ありのままにものを見ることができる眼です。

 阿弥陀仏が智慧の眼でご覧になった
「私」のありのままの姿とは
どのように励んでみても救われようのない
「地獄必定のこの私」でした。

 この私をこそ必ず救うと
阿弥陀仏は本願をたてられ成就して
光の中に摂め取ってくださったのです。
「地獄必定のこの私」は
阿弥陀仏の光の中にこそ気づかしめられるのです。

 どこまでも私の思い通りにならない
苦難の人生にあっても
阿弥陀仏の智慧と慈悲の光の中を
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
往生浄土の人生を共々に歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.25)

「他力とはあなたをブッダにする力」 ※転載

2024-01-24
 「自力」「他力」って
どんな時に使ってますか?

 「自分の宿題くらい、自分でしなさい。
他人にやってもらっちゃダメでしょ!」。
 こんな時に「自力」「他力」を
使っていませんか?

 でも本来の意味ではありません。
正しくは、自分の成仏道における在り方について
使われる仏教用語です。
 
 成仏道とは
私がブッダに成る道のこと。
 ブッダは覚者とも言い
世の中のありのままを自分の都合という色眼鏡をかけずに
まさにありのままに見ることのできる存在です。

 キリスト教では
私たち人間がゴッドになることはできません。
 ですから愛しい人を残して
この命を終えていかなければなりません。

 しかし仏教では
私たち人間もブッダになれ
この命を終えたとしても
自在な力を恵まれ
念仏となって愛しい人のそばに居続けることができます。

 この成仏の方法について
自分で智慧の眼を磨こうとするのが「自力」。
 そして、自分の都合というフィルターを除くことは
私たちには無理だと智慧の眼で見抜いた阿弥陀仏が
阿弥陀仏の力を届けることで
私たちをブッダにしようとされる力を
「他力」というのです。

※満井秀城 師(本願寺新報『本願寺インスタ倶楽部』)

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.24)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
1
2
8
8
4
2
TOPへ戻る