浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
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王さんの結婚
2018-06-02
 王貞治さんが結婚されたということです。
78歳で、大分前に奥さんが亡くなり、その後胃を摘出する大手術をして
その頃から身の回りのお世話をしてくれていた60歳の一般の女性の方との再婚だそうです。
 
 素敵なことですね。コメントに「これからお互いに歳をとっていきますが、支え合っていきたいと思います」と。
そうですね。世界の王とよばれるスーパーマンも自分一人で生きていくことはできません。
それはお互いのことですが、支えられて生きているということなのです。
 
 王さんだけではありません。私たちがそうなんですね。
夫婦という関係でいつも何か当たり前にできていることも
一方が用事で一人暮らしを余儀なくされたときなど身をもって不自由を感じ、当たり前の有難さに気づかされます。
 それは夫婦だけのことではなく家族であったり友だちであったり、日頃の人と人とのつながりのなかで思うことです。
 
 その思うことが思い通りにできなくなるというのが歳をとるということです。
ただ歳をとるといって悪いことではありません。
歳をとって初めて気づかされるのが、人と人との縁ということです。
 
 私たちのご法義に引き寄せて言うならば仏さまのご縁です。
仏さまのご縁をいただく、仏法を聞かせていただきます。
 若いうちはやっぱり難しいですね。
仕事もあるし何でも自分のしたいことはいっぱいあるということで、まず仏法を聞く気になりません。
 
 しかし歳をとっていくなかで病むことが多くなってきます。
今まで感じなかった不安や迷いが生まれます。
 仏法に遇うご縁なのですが、これが中々難しい。
それこそ仏法を聞かずじまいに命終えていく人がたくさんいます。
 
 今皆さんは御仏前に座っています。仏さまのご縁をいただいています。
ただこのご縁に遇うまで色々ありましたね。時間もかかりましたが
前にお立ちの阿弥陀さまはこの私を喚び通しに喚び続けられずっとずっと待っていてくださったのです。
 
 そのお心を聞かせていただくなかで、どうぞ皆さんの隣の方隣の方に声かけをしてまいりましょう。
ご縁いただこう、ご縁いただこう、一緒にいこうねと。
 ご縁いただくなかに今まで見えなかったことが見えてくる気づかなかったことに気づかされて
人間に生まれてよかったと生きていき命終えて阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏さまに成らせていただくと聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.2)
 
新しい月の初め、気持ち新たに始めましょう
2018-06-01
 6月になりました。今朝6時の梵鐘をついていましたら、朝日がもうすでに空高く上がっていました。
光あふれるなかに今日の一日を始めさせていただきます。
 
 今年は早々に梅雨に入りました。6月は水無月といって、水が無いと書きます。
これは旧暦のよび名で、雨が少ないことをいうのでしょうが、いよいよこれから梅雨本番です。
 
 雨が続くと何か気分もうっとうしくなります。雨は往々にして嫌われ者です。
ただ雨が降らないと水不足が心配になります。水がないと私たちの生活は成り立ってはいきません。
 私たちが住んでいる地球を水の惑星というぐらいです。
水は私たちのいのちそのものであり、この身体の大部分が水でできているのです。
 
 太陽であり水であり、大自然の恵みをいっぱいいただいて、今日の一日を始めます。
6月に入りもう一年の半分近く過ぎたのか、本当に早いなと、同じようなことの繰り返しの生活を思いますが
ここは月が新しくなってまた気持ちも新たに生活を始めようということです。
 
 新しい月の初め、気持ち新たに今日の一日を始めましょう。
皆さんとご一緒にお朝事のお勤めをさせていただく有難さを思います。
 毎日の繰り返しのようですが、日々これ新たにお勤めさせていただき一日を始めます。
いろんなことがある毎日ですが、また毎朝お朝事のご縁にかえってこれます。
そしてまた皆さんとご一緒にお勤めさせていただけます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.6.1)
 
車社会に生きる
2018-05-31
 90歳の女性が運転する車が事故を起こし4人が死傷、57歳の女性が亡くなりました。
何とも悲しい、とても残念な思いがします。
 
 高齢者の車運転事故は年々増え、重大事故が起こるたびに高齢者の運転免許証の返納が問題になります。
私たちの周りにも高齢者ドライバーが沢山いて、私自身の問題でもあります。
 
 現代は車社会です。近くのスーパーに行くのも車でと、車は身近で便利な交通手段であり
過疎の集落では車がないと生活できないといったような現状です。
 ある程度の年齢になったら免許証を返納しましょうといって
私の事となるとまだまだ運転に自信がある大丈夫と免許証を手放そうとはしません。
 
 車があると本当に便利です。自分の車を思い通りに自分で運転して生活できる楽しみもたくさんあります。
では車がないと生きていけないのかというと、どうでしょうか。
 
 重大事故が起こるたびに車はまさに凶器なんだと思います。
自分の手で人を殺すことはできるものではありませんが、車で人を殺すことができるのです。
誰しも人殺しの手段で車を運転している人はいませんが、結果的に人を殺すことになるのです。
その人の一生を終わらせてしまうのです。
 
 90歳の女性が運転免許証をもっているということはある意味すごいことです。
若い頃から時代の最先端を行く憧れの的のような人生を歩んできたのではと想像します。
 今度の事故で警察に逮捕され、名前が公表され加害者容疑者と呼ばれます。
ニュースで護送される姿を見ました。本当にいいおばあちゃんです。
 周りの人たち家族が思うこと、悔いることもあると思います。
 
 高齢者でも車があるから便利な生活を楽しむことができるという人もいるでしょう。
では車がないばかりに不便な生活を強いられていると思う人ってどれだけいるでしょうか。
 車だけのことでいえば自分が運転できなくても周りの人に車に乗せてもらえばいいことだとも思うのですが
一緒に生活している家族にでも「車に乗せて頂戴」と言えない、言っても快く応えてくれないということなのでしょうか。
 家族であってもみんな自分を中心にそれぞれ生きていますからといわれると、中々難しいですね。
 
 今の社会のあり様を思います。
困っている人がいます。困っている人がいることがわかっていても、見ようとしない、自分には関係ないとさえ思う。
一方困っている人も「助けてくれ」と言わない、言ったところで嫌な顔をされる、取り合ってもらえないとあきらめている。
 
 日常生活のなかで人と人とのつながりが益々希薄になってきているように思います。
自分のことは自分でできたらいいのでしょうが
歳を重ねるほどに思い通りにならない我が身の悲しさ寂しさを感じます。
 
 人のいのちには限りがあります。生きようと思うことも生きる力もままなりません。
お互い若いときもありました、健康なときもありました、そして今の私たちがいます。
 人それぞれ生活ぶりが違う私たちが家庭で地域社会で共々に日暮ししています。
 
 どんな人も決して一人では生きていくことができない社会です。
阿弥陀さまのご本願のお心を聞かせていただくなかに、あなたも私も自他共に心豊かに生きることのできる社会をめざして
お互いに認め合い敬い合い助け合い支え合っていくことが大切です。
 私一人の楽しみではなく、私たちみんなが人間に生まれてよかった、あなたに会えてよかったと
喜んで感謝していける人生の歩みを共々に、私にできる精いっぱいのことを今日も一日させていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.31)
 
散髪に行きました
2018-05-30
 昨日散髪に行きました。
ちょっと髪の毛が気になって行きましたが、散髪を思い立つのは何か大きな行事があるとか
ここは心機一転とかいう時に思い立つものです。
 何かある時は誰しも身だしなみをきれいに整えることから心がけるものではないでしょうか。
 
 坊守さんから聞いた話です。
歯医者さんに行ったときのことで、昼前の時間で仕事着のままのちょっと身なりの良くない人が
診察室に入る時に靴を脱いでスリッパに履き替えるのですが、その方が脱いだ靴を向き直ってきれいに揃えたといいます。
それを見ていいな素敵だなと思ったそうです。
 
 私たちは何か身なりでその人を判断するところがありますね。
その人が靴をきれいに揃えると見方が変わります。
 
 靴を揃えるということは誰でもできそうでできていないことが多くあります。
人から言われてするものでもなく、人に見せようと思ってするものでもありません。
 その人にとって靴を揃えることは特別なことではなくて、その人の身についたまさに文化なのです。
その人の身だしなみにその人の文化が香るということです。文化がそのすがたに表れるのです。
 
 人に見せようと自分が意識してすることでしたら、自分のその時どきの心の状態で
靴がどこかに飛んでいくように脱ぎ捨てられることもあるでしょう。
 
 身につくというのはそのままなのです。そのまま自然にできる日頃のたしなみです。
日頃からちゃんとできていないとそのことが身につく姿に表れるということではありません。
 姿に表れるというのはその人の今までの人生といってもいいものです。
その気品ある身だしなみが伝わって、いいなすてきだなと思います。
 
 私たちのお念仏の文化です。
皆さん式章をつけていますね。これも付けるまでは大変だったと思います。
 でも今は式章が身についたものになって、式章をつけていないと何かおかしいということです。
人から見たら式章をつけた皆さんの姿が皆さんそのままの姿になって見られるのです。
 
 お念仏の文化、おはたらきです。文化はカルチャー、耕すという意味です。
お念仏南無阿弥陀仏のおはたらきが私の頑なな荒れた心を日々柔らかく耕してくださって
いよいよお念仏を申す身にさせていただきます。
 ようこそようこそお育てをいただいているんだなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.30)
 
浄土真宗の生き方
2018-05-29
 昨日は大海組のれんそう会(連研同窓会)の総会が鶴崎の福正寺さんであり、ご法話聴聞のご縁をいただきました。
「浄土真宗の生き方」という講題でした。
 
 浄土真宗にご縁のある方はこういう生き方をしましょうと、事細かに実例を挙げていうことではありません。
阿弥陀さまのお救いは私たちに生き方を一切問いません。
問う以前に、それぞれ生き方が違うということを見抜かれた上でのお救いなのです。
 
 同じ屋根の下で暮らしている家族でも仲の良い夫婦でも親子でも兄弟でも、その生き方、生活ぶりはそれぞれ違います。
その違いを認め合うなかにお互い日暮しできたらいいのですが、これが中々難しい。
 
 私たちはどこまでも自分を中心に生きています。
私の思い通りになったら、それはそれでいいわけですが、すべての人が自分の思い通りになるということではありません。
自分の思い通りにならないと、その思いが言葉になり行動になって、周りの人を傷つけることにもなります。
 
 そんな私たちをこの阿弥陀さまはすべて見て取って、すべての人が救われる法をつくってくださいました。
阿弥陀さまの言うことを聞いたものだけを救うというのではなく
それぞれの生き方が違うなかで、互いに背中合わせになったり仲良くなったりする私たちを全て残らずそのまま救うという
南無阿弥陀仏のお救いです。
 
 浄土真宗の生き方とはこの南無阿弥陀仏のお救いに遇わせていただくという生き方です。
阿弥陀さまのご本願のお心に我がいのちのあり方を聞きどう生きていくのかたずねていくことです。
 
 昨日のお話です。すべてのいのち尊しと仰いで生きるということです。
このいのち人間に生まれて今こここの私を生きていることを、互いに尊び感謝して喜んでいける生き方です。
 
 このいのちお父さんがいてお母さんがいたというお話です。
お父さんお母さんに「生んでくれてありがとう」と言いましょう。
子どもたちに「生まれてくれてありがとう」と言いましょうと。
そうした大きないのちのつながりのなかに私のいのちがあるんだよ、今を生きているんだよと聞かせていただきます。。
 
 私たちはどんな人も生老病死の人生を送って命終えていきますが
人間に生まれてよかったと言える人生を生きてほしいと阿弥陀さまは願ってらっしゃるのです。
 
 南無阿弥陀仏のお救いの法に遇うために仏法を聞くために人間に生まれて来たといただきます。
仏法を聞くご縁に遇わなかったら、聞かずじまいに終わる人生では空しいですね。
 
 南無阿弥陀仏のお救いを聞かせていただくなかに今日の一日があります。
明日があるかどうかはわかりませんが、この命終えていく時も南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまにならせていただくのです。
 
 このいのち、ずっとずっと遥か昔から南無阿弥陀仏のおはたらきのなかにあってこの人の世に生まれてきました。
そして人の命終えていきますが、南無阿弥陀仏のおはたらきでずっとずっとこれからも仏さまとなって生きていくのです。
 それは私一人のことではなく、今日お参りの皆さんすべてのお方が
南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかにずっとずっとつながって生きていくということです。
 そこに本当に共々に安心できる世界があるんだよと、それを救いといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.29)
 
仏さまのお家に住まいさせていただいて
2018-05-28
 ご法事のご縁にお参りさせていただいてお仏壇を拝見したときに、えっと思うことがあります。
お仏飯をお供えしていないお仏壇がたまにあります。そうしたお家は毎月の月参りをしていないところが多いのです。
 
 ご法事は毎年ではなく何年に一度のご縁ですから、何年ぶりかのお参りのお家もあります。
その間お仏壇をお掃除したりお飾りしたりとお家の人の手が入っていることは確かですが、
お仏壇の本来のお荘厳ができていない、忘れられて、自分流のお飾りになってしまっているということです。
 
 日々のお給仕と申しますが、お仏壇のお飾りの基本はお仏飯です。
お灯明もお花もお香も、あげるといって私の手が入りますが、お仏飯をお供えすることは日々のお給仕の基本です。
 
 今は朝はパン食というところも増え朝ご飯を炊くお家が少なくなりました。
以前は毎朝仏さまにお仏飯をお供えするためにご飯を炊いていたということですが、今は難しいことかなと思います。
 だからこそご飯を炊いたときには、朝でも夕方でも炊き立てのご飯をまず仏さまにお供えして
お礼を申して下げていただけばいいでしょう。
 ご法事やお命日、お彼岸お盆などの仏さまの日には心して
ご飯を炊いてお仏飯をお供えすることを忘れないようにしましょう。
 
 お念仏の先人は、私たちは仏さまのお家に住まいさせていただいているのであり
お仏飯に養われて日暮ししているといわれます。
 養われているとは仏さまの恵みをいただいているということです。
お仏飯だけではなくすべてのものが仏さまの恵みなのです。
だから隣からお菓子をもらった時など、まず仏さまにお供えしてからいただいていましたね。
隣からもらったのですが、仏さまからのいただきものなのです。
 
 蓮如さま(本願寺第八代宗主)はお堂に落ちていた一枚の紙切れを拾いあげ押し頂いて懐にしまったといわれます。
紙切れ一枚も仏法領のもの、仏さまから受領したいただきものだと見られたのです。
もの皆すべてを仏さまのものともったいないもったいないといただかれて日暮しされたのです。
 
 お念仏の日暮しです。仏さまを中心とした日暮しのなかに今日の一日があるのです。
一日の初めまず仏さまにお仏飯をお供えしおさがり恵みをいただくことから始めましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.28)
 
色んなお寺にお参りできる楽しみ
2018-05-27
 昨日はこの円光寺で大海組仏教壮年会の年に一度の総会がありました。
大分市と由布市の一部の浄土真宗本願寺派の17か寺のお寺で大海組が構成されています。
大海組には色んな組織団体があり、その一つが仏教壮年会ですが
年間の行事を組内のお寺が順番に引き受けて、今年は円光寺が当番ということです。
 
 ご門徒さんにもお手伝いいただいて、迎えるお寺は準備などで大変ですが
参加する皆さんにとっては色んなお寺にお参りできるということです。
 お寺お寺によって本堂などの建物の風情、雰囲気が違います。
良い悪いではなくて、お寺のようすがそれぞれ違ってお参りする方には楽しみだと思います。
 
 ただこの本堂のお内陣のようすはどのお寺も同じです。
まん真ん中にご本尊の阿弥陀さま、左右に親鸞さま蓮如さまのご絵像がご安置されています。
お内陣のお荘厳お飾りは変わりません、同じなのです。
 
 このお内陣のお荘厳は阿弥陀さまのお浄土を表します。
皆さんのお家のお仏壇もそうです。同じお浄土を表しています。
 同じということが大事なのです。
皆さんの生活ぶりはそれぞれ違います。
 それぞれの生き方があって、私たちは命終えて一つ処に生まれて往くことができるというご法義なのです。
 
 互いに背中合わせになるような生き方をしている者同士でも仲良しの間柄でも
この人ともっとずっと一緒にいたいと思う人も会いたくない人も
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで一つ処のお浄土に生まれさせ再会させてくださるというのです。
 
 そのお浄土を、このお内陣のお荘厳というかたちで私たちに表してくださっています。
色んなお寺があり風情はそれぞれ違いますが
昨日は円光寺の阿弥陀さまの御尊前一つ処にお念仏のお同行が集い
同じ南無阿弥陀仏のご法義に遇わせていただきました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.27)
 
仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい
2018-05-26
 今日は土曜日です。日々の生活のなかで曜日の感覚がふっとなくなる時がありますが
この土曜日、毎週Iさんがお朝事にお参りでした。
今はご往生されてそのお姿を見ることはできませんが
土曜日が来ると今日もIさんがご一緒にお勤めされているように思います。
 
 日々の生活、私たちの日常です。
お念仏の先人は「仏法は臨終を引き寄せて聞きなさい」といわれます。
 臨終というのは臨命終時ということで、命終わる時に臨んでという意味で
まだ命は終わっていない、生きているということです。
 
 ご門徒さんが亡くなってご家族から連絡がありお参りに行きます。
枕経といわれますが、正式には臨終勤行といって、すでに亡くなっているんですが
まだ生きてあるということで最後の最期ご本尊の阿弥陀さまにお礼を申させていただくお勤めです。
 実際に亡くなったお方はお勤めできませんので、住職が代わってお勤めをさせていただきます。
 
 臨終を引き寄せて仏法を聞くとは、今日の御文章さまのなかにも何度も何度も出てきましたが
私たちのご法義は阿弥陀さまのご本願のお心、信心をいただくことを要と聞かせていただきます。
 その信心は臨終のときにいただいてお浄土に往生するのではなくて、平生今いただく信心なのです。
 
 今が臨終といただきます。
阿弥陀さまのご本願のお救いは臨終のときに決まるのではなくて
南無阿弥陀仏の法はもう今すでにいつでもどこでも私のところに届いてくださってあると聞かせていただくのです。
 
 平生業成(へいぜいごうじょう)です。平生今私たちはご本願のお救いに遇って
阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏さまになることに定まると聞かせていただきます。
 
 今聞く、平生この日常に臨終を引き寄せて阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきを聞かせていただきます。
平生業成のお救いを親鸞聖人は「臨終待つことなし、来迎たのむことなし」という御文で示されています。
 臨終待つことなし、今が臨終、南無阿弥陀仏のおはたらきの真っただ中です。
仏法は臨終を引き寄せて聞け、今聞け急げ急げとお勧めなのです。
 
 その臨終こそ今朝のこのご縁お朝事のお勤めでもあります。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.26)
 
「人生は苦なり」
2018-05-25
 お釈迦さまは「人生は苦なり」と説かれます。
何かマイナスイメージなことを最初から聞くと、仏教を聞くのが嫌になりそうですが
「人生は苦なり」という真実から仏さまの教えが始まるのです。
 
 人生とは私の日々の生活です。
昨日の生活でもあり今日の生活でもありまた明日の生活でもあります。
 苦というのは思い通りにならないということです。
人生の主役はこの私、人生は私の思い通りにならないというのです。
 
 私の周りのものが思い通りにならない、私の言うことを聞かない、言う通りにしない、反発するということです。
こういうことってお互いに日常茶飯事にあることで
何度も何度も経験するなかで私たちは自分なりにうまく対処して生きています。
 
 ところが歳を重ねるなかで一番といっていいほど思い通りにならないものがあったことに気づかされます。
私の一番思い通りにならないものがどこにあるのか。キョロキョロ周りを探すのではありません。
 実はこの私自身が一番思い通りにならないものだと仏法は説かれるのです。
そういう意味で、仏法に遇うということは本当の自分にあうということ、自分自身に向き合うことなのです。
 
 仏さまがおっしゃることです。
あなたはその身その心を煩悩にからみとられて生きていますよと。
 
 何か私たちは自分のことは自分が一番よく知っていて
自分のことは自分の思うようにできると思い込んでいるところがありますね。
 ところが実は私たちは煩悩にとらわれ縛られて自分のことでありながら自由自在に生きることができないと
仏法は説かれるのです。
 
 そのことが周りのものが自分の思い通りにならないという見方になるということですし
そしてもう一つこの身このままが思い通りにならないのです。
 
 この身ということは、生きるということです。
生きるということは、老いるということ、病むということ、そして命を終えていくということです。
いつまでも若くありたい、健康でいたい、長生きしたいと思っても、これはどんな人でも待ったなしの事実なのです。
 このことに本当に向き合わなければならない時が必ず来ます。
若い時分は、若さや健康にまかせて自分自身のことと受け止め考えることがなかったのではありませんか。
それがこの身の事実として思い通りにならないことに気づかされるのです。
 大きな不安を感じ苦悩します。
将来の不安です。一体これからどうなるのか。もっというとこの命終えて死んだらどうなるのかという不安にもなります。
 
 明日のいのちもおぼつかないという苦悩のなかに、仏さまのご縁をいただきます。
仏法を聞いてくれよといわれます。私たちの仏法は南無阿弥陀仏、阿弥陀さまのご法義です。
ナンマンダブツとお念仏を申してくれよと阿弥陀さまはおはたらきです。
 
 ナンマンダブツとお念仏を申したらそうした悩み不安がすべて解消するのでしょうか。
ナンマンダブツとお念仏申すなかに「私がいるよ。大丈夫だよ」と阿弥陀さまのおよび声を聞き
南無阿弥陀仏の大きな大きなお慈悲のなかに共々に生きることができるのです。
 
 お念仏申すなかに私たちは思い通りにならないことに向き合っていくことができるのです。
誰しも苦悩の状況から逃げたいですよ。でも逃げても逃げても何の解決にもなりません。
この阿弥陀さまのご法義がすごいのは、私がどんなに逃げても逃げても逃げても、どこまでも私を追って追って追いかけて
最後は南無阿弥陀仏のお慈悲の中に摂め取って救うてくださるというおはたらきなのです。
 
 どうぞナンマンダブツとお念仏申し南無阿弥陀仏のお心を聞くなかで、
日々の生活、今日の一日です。思い通りにならないことがたくさんたくさんありますが
ナンマンダブツとお念仏申して生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.25)
 
さわやかな朝を迎えました
2018-05-24
 気持ちのいいさわやかな朝を迎えました。
光あふれて、風もいいですね。そして色んなお花がいっぱい咲いています。
 今朝梵鐘をついて玄関に戻るときソテツの前の満開のさつきが目に飛び込んできました。
お花を愛でる楽しみも多くなります。
 
 花のいのちも私のいのちも同じいのちです。
御仏前にお花をお供えさせていただきます。
 人にお花をプレゼントであげます。きれいな花びらの方を向けてあげます。
ところが仏さまのお花はきれいな方は私たちの方を向いています。
間違いではありません。それでいいのです。
 仏さまのお花は仏さまのお慈悲のお徳おはたらきをあらわしているのです。
 
 お花を見てほっとします、ほっとさせられます。
むしゃくしゃした心も優しく整えてくれる、そういうはたらきがお花には具わっています。
 
 元々私たちのいのちもそういうはたらきがあるのでしょうか。
周りの人を和やかにほっとさせるあたたかい心です。
 ところが私たちはどこまでも私が私がという自分を中心としたものの見方にとらわれて生きていますから
気づかないうちに周りの人から敬遠されることもあるのではないでしょうか。
 
 誰しも周りの人ばかりでなくみんなと仲良くありたいのですが、中々そうはいきません。
あの人に会うのは気が進まないな、会いたくないなとさえ思うことがあります。
 これはあの人の話ではなく、そういう私になってはいないでしょうか。
 
 ナンマンダブツとお念仏を申し南無阿弥陀仏の鏡にあわせていただいて
わが身のありのままの姿を知らせていただけるのもお念仏南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.5.24)
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