浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
フォーム
 
何か一つできることをさせていただきましょう
 東の空が日に日に早く明るくなってきました。今日から春の彼岸に入ります。
 
 この年度末お寺の会議が続きます。
これからのお寺はどうあるべきか、お寺の厳しい現状を考えるとき
思うようにならない課題がたくさん出てまいります。
 
 今朝起きてふとこの世のことはなるようにしかならないと思いました。
私がどんなに頑張っても頑張らなくてもなるようにしかならないというのがこの世の中の営みだということです。
 ただこの世に私が生きているという現実です。
お寺の住職という我が身この私です。皆さんでいったら浄土真宗の門徒ということです。
お念仏のご縁をいただく私たちです
 
 何か一つでも阿弥陀さまのご法義のお手伝いをさせていただくことがないかなと思って
今朝の新聞のコラムに「お寺おやつクラブ」の活動が書かれてありました。
 奈良の30代の若いお坊さんが始めたことです。
私たちの目に見えないところで今日の生活に食事に困ってらっしゃる貧困のご家庭子どもたちがいるという現実です。
 そういうお子さんにお菓子を届けようという活動です。
仏さまにあがったお供え物のお菓子です。お供え物のお下がりをおすそ分けするということです。
そのままにしていてももったいないことで
少しでもお手伝いにならないかと始めた活動が今全国各地のお寺さんに広がっているというのです。
 
 私たちは何か大きなことを思ってこうしようああしようと考え何度も議論して
結局のところ構想だけが膨らみすぎてこんなことは到底できないねということで終わってしまうことが多々あります。
 小さなことからできることってどこか身近にあるんですね。
 
 最近はご法事のお供え物が減ってきました。
お葬式もそうですがご法事もコンパクトなものになって
親戚に案内することもなく家族だけお経だけというご法事が多くなりました。
 
 ここは一つご門徒皆さんに呼びかけてみようと思います。
お供え物といってそんなに高価なものではありません。
 仏事のご縁に仏さまにちょっと気持ちをお供えにしてお寺に届けていただけたらと思います。
そのことがそのまま名前も知らない子どもたちの何かの助けお手伝いになるといいなあと思います。
 
 他にもいろんな取り組みがあると思います。ただ私にできることは限られています。
それこそなるようにしかならないことかもしれませんが
何か一つでもナンマンダブツとお念仏を申す私たちにできることをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.18)
 
布施の心でさせていただくありがとう!
 昨日3月14日はホワイトデイということで
1か月前の2月14日のバレンタインデイでプレゼントを頂いた人がお返しをする日だったそうです。
 バレンタインデイは女性から男性にチョコレートを贈るのが定番でしたが
今はそれぞれプレゼントの内容も違ってきたようです。
 ただお返しをすることに変わりなくそれも数倍返しとかいって頭を悩ます人も多いと聞きます。
 
 これは西洋から入ってきたもので日本に昔からあったものではありません。
西洋の社会はギブ&テイクの考え方が基本でこれは今の私たちの経済社会がそうなっています。
 仕事や品物の対価として代金を払うということです。
分かりやすい考え方で私たち人間の理にあっています。
 
 ただこの気持ちをお金や物で表すこと自体にちょっと不謹慎なことを思います。
また何倍返しというように見返りを求めたり期待したりということについては何かしっくりきません。
 
 仏教では布施の心といいます。
この布施の心は見返りを求めないことが原則です。見返りを求めない一方的な行為なのです。
 布施の布は布(ぬの)ということで遍(あまね)くという意味があります。
誰彼と限定した人を対象とするのではなくあらゆるものすべての人に施すということです。
布施行は菩薩道の第一番目の行で、仏さまのお慈悲の心なのです。
 
 そこに私のはからいがあったら布施にはならないのです。
仏さまのお心もちのお手伝いをさせていただくことが布施の心です。
 
 私たちの行為はどこかで見返りを期待しています。
善いことをしてあげたのにお礼の一つも返ってこない。
腹が立ちますね。せめてありがとうの一声ぐらいはと思ったりします。
 
 布施の心は見返りを求めない一方通行です。
そして私にできることをさせていただくということが大事です。
仏さまは私にできないことを求めているのではありません。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことです。
 
 お念仏に生かされる喜びを私一人のものにするのではなく隣の人にお念仏を勧めることも私たちの布施行です。
お念仏はお金や物品ではありません。
物でしたら例えば食べる物だったら三人で分けると三等分の物になります。
人数が増えればどんどん減ってきます。
 
 ただお念仏は人に分けても減ったりしません。
そのまんま同じお念仏です。
 お念仏を勧め伝えて、そのお念仏をいただいた者がまた隣の方にお念仏を伝えるということです。
まさにお念仏のおはたらきがそこに生きてあるのです。
 
 人から人へと遍く広く広く伝わってそして私のところに届けられたお念仏が
私の口から出てくださるお念仏なのです。
 遠い遠いはるか昔からお念仏を伝えてくださった方がいらっしゃっるというご縁です。
南無阿弥陀仏のおはたらき大きな大きな仏さまのご縁つながりのなかに
私にできる精いっぱいのことを今日も一日させていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.15)
 
食品ロスの現場
 ホテルで会食があって7,8人で丸テーブルを囲み大きなお皿に食べ物が次から次に出てきます。
そばに小皿が置いてあります。自分で好きなものを好きなだけとってくださいということですが
次から次にとなると前の食べ物の大皿が残って次の大皿を置くところがなくなります。
 
 そこは係の方が小さなお皿につぎ分けて次の大皿をもってくるのですが、この前は最後にチャーハンがでました。
テーブルの人は他のテーブルにお酒をつぎに行ったりして殆どそのチャーハンを取る人がいません。
 次にデザートがでます。チャーハンとデザートの大皿が並びます。
デザートには人数分のケーキがのっています。そしてコーヒーがでました。
 さすがにコーヒーは大きなポットに入っているのではなく一人一人カップにつぎ分けられたものです。
コーヒーを口にする人はいますが、ケーキを取る人は殆どいません。
テーブルには大きなお皿のチャーハンとケーキそしてつぎ分けられた数多くの小皿が残ります。
 
 さてこの残った食べ物の行方はどうなるのでしょうか。
多分残飯ということで捨てられてしまうのではないでしょうか。
 
 食品ロスといわれますが、私たちの身近なところに食品ロスはたくさんあります。
昭和30年代の家庭の食事の風景がテレビドラマで再現されます。
ちゃぶ台一つを囲みお皿に盛られた食べ物を家族がつついて食べるものです。
ご飯とお汁ものに主な食べ物は一品二品といったもので、子どもたちはそれを争うように取って食べていました。
 
 今の大皿を囲む食卓とは似ているようで全く違います。
それこそ一粒のご飯も残さないようにみんなきれいに食べあげていました。
 本当に今はもったいないことをしていることだと思います。
私もその中の一人ですが、何でこんなことになるのかなと思ったりします。
 
 つぎ分けたらつぎ分けたものだったら食べるかもしれませんね。
でも自分からつぐ取るということは中々しません。誰かがしてくれるものとでも思っているのでしょうか。
 
 これが今の日本の食生活の実態です。
飽食の時代と言われて随分久しいことですが
そのなかで今日のご飯をいただけないという方がたくさんいらっしゃるということです。
貧困のなかにあって声を上げることもできない方々です。
 
 何か変だなというなかに今日も生活をしています。
ナンマンダブツとお念仏を申す、お念仏のみ教えを聞かせていただくことは
この食品ロスのことと全く関係ないということではありません。
 
 阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のお心南無阿弥陀仏のおはたらきは
私一人に届けられたものではなく私の隣の人も隣の人も
名前も知らない顔も見えない人もみんな共々に救われていくというみ教えです。
 日々の生活のなかでナンマンダブツとお念仏を申させていただきながら
こんなことでいいのかなこんなことでいいのかなと問われ聞かせていただくことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.14)
 
お浄土からのおはたらき
 お仏壇のお荘厳をします。
皆さんのお家のお仏壇やお寺の本堂お内陣のお荘厳ですが、お仏壇は阿弥陀さまのお浄土を表すものです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきをすがたかたちとして私たちに見せてくださいます。
 
 真ん真ん中にご本尊の仏さま阿弥陀如来さまのおすがたをご安置させていただきます。
まさに阿弥陀さまのお浄土です。
 今日のご和讃に「十方無量の諸仏」とありました。
この目には見えませんが、お浄土には私たちのご先祖有縁のお念仏の先人が
諸仏すなわち仏さまとなっていらっしゃるということなのです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきとなって阿弥陀さまのお手伝いをしてくださってあるのです。
私たちにお念仏を申してくれよお念仏を申してお浄土に生まれて来いよ必ず生まれさせるという力強いおはたらきです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに阿弥陀さまをはじめ諸仏方がいらっしゃるというおはたらきを
お仏壇のお荘厳を通して毎日仰いで日暮しさせていただくことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.13)
 
高校三年生をおくる会をしました。
 この前の日曜日に高校三年生をおくる会をしました。
小学生の子ども会水曜学校の頃からお寺にご縁があった高校生です。
今度卒業してそれぞれ進路が違います、大きな人生の節目にあってお寺に集まり
一緒にお勤めをし仏さまにお礼をさせていただきました。
 
 小学校を卒業してからも中学高校とずっと夏のサマースクールや11月の子ども報恩講に
主なスタッフとしてお手伝いいただき子ども会活動を大いに盛り上げてくれました。
特に人形劇は子どもたちに大変喜ばれました。
 
 中学高校になると友だち関係も広がり部活や勉強で個々の時間が忙しくなってお寺から遠く離れていくのが通例ですが
逆にお寺という場所にみんなが気持ちをもって集まり協力して活動することで
お寺との関係が益々深くなっていったように思います。
 
 本当に有難いご縁です。有ること難しです。
青春真っ只中のこの時期にこうしてお寺とのご縁ができたということは
これからの人生の道行きのなかでも本当に貴重なことだと思います。
 これからがまた楽しみです。
 
 仏さまのご縁です。このご縁に遇うことの難しさです。
若い時からご縁に遇う人もいればいよいよいいお歳になってご縁に遇う人の方が多いと思います。
ただ仏さまのご縁に遇わずじまいに人生を終える方が殆どだということです。
 早くからご縁に遇っていればと思い返すこともありますが
仏さまのご縁は今こここのご縁なのです。
 
 今の皆さんです。今ご縁に遇っているということです。
そのこと一つ大事にしてこれからも仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただいてまいりましょう。
 
 生まれ難い人間に生まれて仏さまのご縁をいただいてお念仏申す身にさせていただきました。
仏さまのご縁は私一人だけのご縁ではなく私たちみんなのご縁です。
 大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあることの有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.12)
 
3月11日の朝です
 お勤めの前にいつものように喚鐘を打ちに外に出たら
東の空がパーッと明るく雲が茜色に朝焼けして光り輝いて見えました。
 いよいよこれから次第に朝が明るくなって本格的に春になっていくんだなと思います。
 
 東日本大震災から今日で8年になります。
今日東北の被災地の皆さんはどんな朝を迎えたでしょうか。
朝の景色はどう見えましたか。どんなことを思われたでしょうか。
 
 日々の生活を思います。
8年前の朝は普段通りに学校に職場に送り送られて一日を始めた家族が帰る家を失い離れ離れになるということです。
 何か当たり前のように私たちは日々暮らしていますが、当たり前が本当に有難いことだなとまた思います。
 
 最近毎年のように地震や台風集中豪雨と自然災害が日本各地で多く起こっています。
いつどんな形で私たちの身の上に起こるのかわかりません。
どう備えていいのかもわかりません。
 
 今こここの命を生きていることを思うとき
大きないのちのつながりのなかに共に生かされて生きることの有難さ尊さを重ねて思います。
 
 お浄土への道すがらを今日もお朝事のご縁をいただいて共々に歩ませていただける有難さです。
東日本大震災の被災地の皆さんに思いを致し私にできる精いっぱいのことをさせていただきたいと思うことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.11)
 
お念仏申して生老病死の身を生きる
 最近著名人のがんの公表が続いています。
がんというとすぐ死を連想される方も多いと思います。
 
 また著名人が亡くなると新聞にお悔やみ記事が載ります。
そこには死亡原因がよく書かれてあります。
例えば肺がんで亡くなったとか、大腸がんとが脳梗塞とか心臓疾患とかいったものです。
 
 ただ誰でもみんなこの世に生まれて来たから死んで行くんですよね。
私たちはこれまでに何度も何度も生まれては死に生まれて死にと生死を繰り返して
このたびはこの人間界に生まれて来たと仏教は説きます。
そしてこれからも生死の迷いの世界を繰り返し経巡って悩み苦しんでいくというのです。
 
 誰でも必ず死ぬことは知っています。
老いたくないいつまでも若くありたいと思っても日々老いていきます。
健康でいたいと思っても病気なるときは病気になります。
 
 老病死の身を今まさに生きているのがこの私の現実ですが
どこまでも自分の思い通りに生きたいと思う私が老病死のわが身の事実にであうとき
そのことに向き合うことも受け入れることもできなくて苦しみ悩み迷うというのです。
 
 闘病といいます。病と闘うというのです。
その気持ちは本当に尊く大事です。気持ちがなかったら苦しい治療に耐えることもできません。
しかしどんなに頑張っても必ず命終える身であることに変わりありません。
 
 仏さまは病と共に老いと共に生きることを教えてくださいます。
老病死の苦悩のわが身をそのまま引き受け「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となっていつも私にご一緒です。
 
 ナンマンダブツとお念仏を申して病んでいけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して老いていけるのです。
ナンマンダブツとお念仏を申して死んでいけるのです。
 
 死んでいけるとは死んで往くところがあるということです。
死んだらお終いではありません。
 迷いを離れて阿弥陀さまのお浄土に往きさとりの仏に生まれさせていただけると
往生浄土のみ教えを私のこととして聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.10)
 
ご法事のご縁を大切にお勤めさせていただきましょう
 17回忌のご法事の申し込みがありました。
ご法事のご通知はお寺から毎年12月の暮れにご法事を迎えるお家に差し上げています。
 はっと思ったのは、そこのお家は7回忌13回忌とこれまでご法事をお勤めしたことがない
日頃お寺とあまりご縁のないお家だったということです。
 
 17回忌というと大切な方がご往生されて16年が経った今、なぜご法事のお勤めを思い立ったのかなと思ったのです。
ご事情がありましてお寺でお勤めをすることになりました。
 お母さんのご法事です。遺った子どもが施主となってお勤めすることです。
大切な方とお別れして年月が経てば経つほどに先に往かれた方のことを思う気持ちも変わってくるものです。
時間が経ったら忘れてしまうような関係ではありません。
 時が経てば経つほどにその人のことを身近に思えるようになることもあるのではないでしょうか。
亡くなられた年齢に近づけば近づくほどにまた思いも違ってくることかなと思ったりします。
 
 お寺からご法事のご通知をすることも大切なことだと思います。
17回忌の後は25回忌33回忌50回忌と続きます。
その間には新しい家族も増えてまいります。いのちのつながりは広がってまいります。
 ご法事を勤めるかどうかは後に遺った方が考えることです。
 
 ご法事は大切な方とご一緒だったことを思うご縁です。
大切な方がいて今の私があるということです。
 大切な方と出会いそして別れるということですが
私たちのお念仏のご法義をいただきますと、別れるといってまた出遇っていくということです。
お浄土の仏さまとなってまた私のところに還ってみえて
ナンマンダブツとお念仏を申すなかにいつでもどこでも出遇っていけるといただきます。
 
 人と人との別れはありますが、ご法事のご縁をいただいて
先に往かれた方々も後に遺った私たちも共々に大きないのちのつながりのなかに生かされて
ご一緒させていただいていると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.9)
 
「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」
 あるお寺さんの山門の掲示板に「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」という言葉が掲げてありました。
その言葉を見てすぐ思い出したのが、あの戦国の武将の信長、秀吉、家康の句です。
 信長は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトギス」秀吉は「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
家康は「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトギス」と、それぞれの武将の性格心持ちを詠んだ句として有名です。
 
 さて「呼ばぬなら 呼ばせてみよう ナモアミダ」皆さんはどのように聞かれますか。
ナモアミダ南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの「まかせよ救う」のお喚び声おはたらきです。
 呼ぶというのはこの私です。私がお念仏を申すということですが
中々この口からお念仏がでない私です。
 
 この私のこのしぶとい口からお念仏が出てくださるということは
阿弥陀さまのおはたらきがもう既に私のところに届いてくださってあるしるしだといただきます。
 
 「呼ばぬなら 呼ばせてみせよう ナモアミダ」と
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきのなかに私たちはもう既に救い取られてあるのです。
 そのことを聞いてくれよ聞かせていただくその中に私の口をこじ開けてナンマンダブツとお念仏が出てくださるのです。
 
 私が私がとどこまでも自分を中心に日々生活している私たちですが
私の見えないところで私をそのまま支えてくださる阿弥陀さまのおはたらきがあることをまた味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.8)
 
今日もお念仏の遠足の一日です
 昨日は小学校のお別れ遠足だったということですが、雨で学校で遠足のお弁当を食べたそうです。
この3月はお別れ遠足で4月になるとお見知り遠足と続きます。
 
 小学校の頃を思い出します。
お別れ遠足は護国神社のある松栄山でした。
今は家々が広がり車が行き交う道をとても遠足どころではありませんが
当時は木造の狭い海原橋を渡って田畑のなかを歩いて行ったような記憶が残っています。
 松栄山は結構遠くてまだ着かないのかまだ着かないのかと何度も思って歩いたのではないでしょうか。
でも遠いけれども近いというか何かいつの間にか松栄山に着いていたという感じです。
 
 お別れ遠足は6年生を送る遠足、お見知り遠足は新1年生を迎えるということです。
遠足ということを私たちの人生に重ねて思います。
 遠足って遠い足と書きますが、遠い遠いはるかな道を歩いていくんですね。
遠いところですが、遠足の目的地は決まっています。
決まっているからもう少しもう少しと頑張って歩いていけるのです。
 
 では人生という遠い旅、その目的地はどこでしょうか。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと、それは阿弥陀さまのお浄土だよと教えてくださいます。
 遠い遠いはるかに遠い一度も行ったことのないところです。
そしていつ着くかもわからないところです。
いつ着くかわからないけれども必ず着くところと聞せていただき安心して歩いて往けるのです。
 阿弥陀さまのお浄土は阿弥陀さまがこの私のために用意をしてくださった私のいのちの終着地です。
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のお喚び声に励まされてナンマンダブツとお念仏申して歩いて往けるのです。
 
 遠足の楽しみはみんなで一緒に歩いて往く楽しさです。
松栄山まで一人で歩いて行くんだったら途中で「やめたー」ということにもなってしまいます。
 二人三人四人五人と一緒に連れだって歩く楽しさです。
この人生の道のりは色んなことがあるけれどもみんな一緒だと歩いて往ける、みんな一緒に同じところに往けると
そのこと一つお念仏のみ教えを聞かせていただき日々の日暮しをさせていただきます。
 
 今日もお念仏の遠足の一日です。
遠い遠い道のりのようですが、いつの間にか目的地に着かせていただく
阿弥陀さまが私たちに開いてくださった広い道を共々にお念仏申して歩ませていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.3.7)
<<円光寺>> 〒870-0108 大分県大分市三佐3丁目15番18号 TEL:097-527-6916 FAX:097-527-6949