浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
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七日七日の仏さまのご縁です
 七日七日のご縁をいただきます。
一七日ごとに先に往かれた方のことを仏さまといただけるのが七日七日の仏さまのご縁です。
 
 大切な方とお別れをするという悲しみのご縁です。
振り返ってみたらああすればよかったこうすればよかったと後悔する思いも残るのが私たち凡夫の情であります。
ただこの愚痴をこぼし途方に暮れるような悲しみのご縁にあって七日七日の仏さまのご縁であります。
 
 大切な方がこの目に見える形で戻ってくるわけではありません。
日々の生活のなかで大切な方がいなくなったということをこれから何度も知らされ
いろんなことが思い起こされてまた悲しく寂しく思う私たちであります。
 
 そういう私たちをもうすでに思い取って愈々先に往かれた方が仏さまとなって私をご縁に導いてくださるのです。
七日七日の仏さまのご縁を有難くまた精いっぱいお勤めさせていただきましょうとお取り次ぎをさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.15)
 
インドの天親菩薩さまと中国の曇鸞大師さま
 毎朝拝読していますお正信偈さまのなかに、お釈迦さまが説かれた阿弥陀さまの本願念仏のみ教えを伝えてくださった
インド、中国、日本の七人の高僧方(七高僧さま)のご事績が名前とともにでてきます。
 そのなかで同じ名前が二か所出てきます。インドの第二祖天親菩薩(てんじんぼさつ)さまです。
「天親菩薩造論説」と「天親菩薩論註解」と記されてあります。
 ここは拝読するときよく間違いやすいところで、天親菩薩まで同じですから先に飛んだり前に戻ったりということで
気を付けなさいとよく言われました。
 
 天親菩薩造論説というのは、天親菩薩は『浄土論』というお書物を書かれました。
その浄土論を中国の第三祖曇鸞大師(どんらんだいし)さまが註釈されたお書物が『浄土論註』で天親菩薩論註解とあります。
 
 親鸞聖人の親の字は天親菩薩の親の字を鸞は曇鸞大師の鸞をいただいたものです。
それほどに親鸞聖人は天親、曇鸞という二人の高僧の教えを大切にされたということです。
 
 天親菩薩の『浄土論』の最初に「世尊我一心帰命尽十方無碍光如来願生安楽国」とあります。
世尊我一心と、一つ心と書いて二つはない疑いない心といって信心のことをいいます。
私がおこす心ではなくまさに阿弥陀さまの真実信心まことの心を一心というのです。
そのお心をいただくことが肝要だというのです。
 
 お正信偈さまには一心のご利益を三つ述べられています。
まず信心いただくと現生正定聚といって今この私が仏に成ることが定まる決まるというのです。
仏に成ったのではありません。仏に成ることがもうすでに決まったということです。
 次に往生即成仏の益とあります。
命終わって阿弥陀さまのお浄土に往生して即に成仏、仏に成らせていただくといいます。
 そして仏に成ったらそれで終わりかというと、その後の仏のおはたらきが大事だいうのです。
それが還相回向です。
往相回向でお浄土に生まれてすぐさま仏に成ってこの迷いの世に還って来て人々を救うというのです。
 
 現生正定聚も往生即成仏も還相回向もすべて阿弥陀さまの南無阿弥陀仏お名号のおはたらきといただきます。
南無阿弥陀仏とこの口から今日もお念仏が出てくださいました。
このお念仏のおはたらき一つに一心いただくというのです。
 そのことを天親菩薩、曇鸞大師のご功績と親鸞聖人はいただかれ
今日もこうしてお正信偈さまを拝読するなかに味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.14)
 
浄土真宗は大乗の至極なり
 「浄土真宗は大乗の至極なり」という親鸞聖人のお言葉があります。
浄土真宗といって宗派の名前ではなく「浄土を真実の宗とする教え」というまさに教えそのものを表したものです。
 
 仏教はインドから中国そして日本に入ってまいります。
こうして伝播した仏教を北伝の仏教といい大乗仏教といわれます。
 大乗とは大きな乗り物という意味です。
大乗に対して小乗といいますが、上座部仏教といわれインドからスリランカを経て
タイ、ビルマ、カンボジアというインドシナ半島に伝わった南伝の仏教があります。
 
 大乗仏教はすべてのものが救われていく仏さまの教えを大きな乗り物に譬えていいます。
阿弥陀さまの本願念仏の教え南無阿弥陀仏のお救いです。
 いつでもどこでもだれでもが救われていく教えです。
 
 仏教というと出家して山に籠り修行を積んで悟りを開くという仏道を思いうかべます。
厳しい戒律を守って難しい行を修める仏道です。
 
 ただ私たち一般民衆が容易に修めることができる仏道ではありません。
家庭をもち仕事をし日々生活している私たちが救われていく仏道は大乗の教え浄土真宗の仏教なんだよと
親鸞聖人が「浄土真宗は大乗の至極なり」といわれたのです。
 
 至極とはこれ以上ない極みということです。
親鸞聖人が私たちに届けてくださったお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
お念仏を申す生活をさせていただきましょう。
 お念仏を申すなかにいつでもどこでこの私をこそ必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏のお救いを聞かせていただき今日の一日も日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.13)
 
お遺骨の行方
 昨日は本堂で満中陰のご法事のご縁をいただきました。
お勤めをし納骨堂にお遺骨を納骨した後のお話で、行く行くはお遺骨全部を別の墓地に改葬したいと相談を受けました。
お遺骨をみる人が他にいるとのことですが、遠方に住んでいてお墓はまだないということです。
 その後もう一件別のご門徒さんから相談がありました。
遠方に住んでいた独り暮らしの親族が亡くなって納骨するお墓がなく三佐のお墓に納骨したいとのことです。
 
 人が亡くなると火葬されてお遺骨が残ります。
身寄りのない方も形あるお遺骨は粗末にはできません。どこかに納めなければいけません。
 納めるべきところに納めることで一つ気持ちが落ち着きます。
ちょっと前でしたら自分の遺骨の行く先はあれこれ考えることではなく決まっていたと思います。
 しかし今は先祖代々のお家のお墓がある故郷を離れ生活する人が増え
生活する近くに新しくお墓を求めたいということもあって大きな悩みになっています。
 
 その時に考えたらいいといっても結局困るのは後を見る人です。
子どもには迷惑をかけられないと夫婦で納骨堂の個人墓を求めたり、友人と一緒の共同墓を求めたり
永代供養墓や合葬墓、樹木葬、散骨などお遺骨の行方もさまざまです。
 
 私の遺骨の始末です。元気なうちにやるべきことをしておくことが大事だと改めて思います。
私のいのちのあり方を思います。この世に生まれて生きて死んでいくいのちです。
 
 この命いつか必ず終えていくことは本当のことです。
誰もが知っている明白なことですが、自分のことと聞きたくない思いたくない
生きることに精いっぱいの私がいます。
 
 仏法は生と死と分けて見ないで生死(しょうじ)のいのちと見ます。
生死のいのちに向き合わせていただけるのが仏法の場仏さまのご縁です。
 仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
私たちのいのちは死んだら終いのいのちではなく
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまに成らせていただくいのちと聞かせていただきます。
 
 私たちのご先祖もまた阿弥陀さまの本願力、南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」のおはたらきで仏さまに成って
私たちを仏さまのご縁に導いてくださっていると聞かせていただきます。
 
 目に見えるお遺骨の行方は様々ですが、南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのつながりのなかに
私も先に往かれた方々も生かされてあるのです。
 ただただ仏さまのご縁をいただきましょう。仏法聴聞してお念仏申す身にさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.12)
 
仏法聞くとは食べることなり
 朝夕は暗くなり寒くなってきましたが、日中はまだ温かいですね。
今年の冬は暖冬だという予報も出ているようです。
 こうして毎朝この時間にお朝事のご縁をいただきます。
日々さまざまに移り変わり行くなかに一つのことを続けてさせていただく、生活の中心ができるといただきます。
 
 今月のことばは「仏法聞くとは 食べることなり 念仏申す身に してくださる」です。
仏事をお勤めし仏法聴聞させていただくご縁を食べることに譬えて味わわせていただきます。
 
 今日も皆さんこれからお家に帰って朝ごはんを食べますね。
一日三食、規則正しく食べていますか。規則正しい食事は私たちの生活をリズム良く整えてくれます。
そして食事をすることでこの身をつくりこの命を保ってくださいます。
食べることは生きることの一丁目一番地です。
 何か当たり前のように日々食事をしている私たちですが
食べることができるということは本当に大事なそして有難いことです。
 
 仏法聴聞も有難いことなのです。
仏法聞くとは食べることだと味わいなさいと先人の教えです。
 仏法聞くとは食べることのように覚えなくてもいい、貯めなくてもいいというのです。
何日か前の夕食何を食べたか覚えていますか。
覚えていなくても栄養分はしっかりこの身に付いています。
 食べたものを貯めていたら病気になってしまいます。
心配いりません。体のはたらきで老廃物は自然と外に出してくれます。
 
 仏法を聞くことも頭で覚えようとしなくてもノートにメモして貯めておかなくても
大事なことはそのまま身についてくださるということです。
 阿弥陀如来の本願念仏のご法義でいえば、南無阿弥陀仏を聞かせていただくところに
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで南無阿弥陀仏が身について
南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出てくださるということです。
 
 食べることは覚えなくても貯めなくてもよいのですが、しかし欠かしてはいけません。
食べることを欠かしたら死んでしまうように、仏法聴聞を欠かしたら死ぬというのです。
 仏さまのみ教えを聞かないとお念仏申す身になることなくこの人生を空しく過ごし
命終わってまた迷いの境界を繰り返すというのです。
 逆に言うと私たちは仏法を聞くためにこの人間界に生まれ来て生きているとの教えです。
 
 仏法聴聞してくれよお念仏申す身になってくれよと諸仏方がお勧めです。
そのこと一つ心に入れてこのお朝事のお勤めです。日々仏法聴聞してお念仏申す生活をさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.10)
 
ご法話『願われたいのち』
 今日はご法話を紹介させていただきます。
 
 今から約20年くらい前の話なのですが、とあるお寺の住職さん。坊守さんに幼稚園に通う二人の息子さんがいました。
その長男の息子さんは、お寺の近くの商店街のお祭りに親戚の方に連れていってもらったそうです。
 帰りに住職さんが迎えに行くと、その息子さんは後ろに何かを隠しもっていました。
それは、金魚すくいでとった二匹の金魚でした。
 住職さんは「お寺では金魚は飼わないから返しなさい」と言いましたが
息子さんは「僕が金魚の世話をするから飼わせて」と何度も言いました。
 住職さんは今の気持ちなだけで、世話などたいしてしないことはわかっていましたが
金魚の世話をいきちんとするという条件で買うことを住職さんは許したそうです。
 お寺に帰る途中、水槽や餌を買って、何度も自分で世話をするようにと約束をさせました。
 
 飼い始めて3日ぐらいは世話をしていましたが、案の定息子さんは世話をしなくなり餌やりや水の入れ替え等は
住職さんの日課となってしまいました。
 
 数週間が過ぎたある日、1匹の金魚が死んでしまいました。
住職さんは幼稚園から帰ってきた息子さんに「残念で悲しいお知らせがあるんよ。金魚が1匹死んだんだ」と報告しました。
 住職さんは息子さんが「どうして?」とか「もっと世話をちゃんとすればよかった。ごめんね」と言うと思っていたら
息子さんは「1匹だけ死んだの?じゃあいいや、まだあと1匹いるから」と答えました。
住職さんは何も言葉がでなかったそうです。
 
 その話を聞いていた坊守さんは息子さんの手を引っ張って本堂に連れていきました。
坊守さんは息子さんに「あなた今まだ一匹いるからいいやって言ったわね。
お母さんには二人子どもがいるからあなたが死んでも別に何とも思わないから」と言ったそうです。
 続けて坊守さんは「あなたの言ったことはそういうことよ。
お母さんは子どもが二人いるから一人死んでもいいやと思わないよ。
金魚だって死んだ金魚とまだ生きている金魚は代わることのできないのちなの。
そしてあなたのいのちも弟のいのちもどちらも代わることのできない大切ないのちなの。
二人ともお母さんの大切な宝物なの」と言ったそうです。
 
 息子さんは大泣きしながら「ごめんなさい」と言ったそうです。
しばらくして住職さんは「金魚はどうする?」と息子さんに尋ねると
「金魚のお葬式をしたい」と言われ、息子さんと住職さんは阿弥陀さまの前でお参りをし
2匹目の金魚が死んだ時も同じことをしたそうです。
 
 ちなみに息子さんはこのエピソードがきっかけとなり成長してこの法話に書かれた人になったそうです。
私の幼い頃のように他のいのちを自分の都合で見て一つのいのちぐらいいいじゃないかと
いのちをいのちとも思わないまさに残酷な私は他のいのち自分のいのちも
生きるとか何か死んで行くとは何かという意味も知らずにこのまま迷い続けるしかありません。
 
 いのちの平等であることは言われると分かりますが常日頃からそのような心が持てず
自分勝手な思いから他のいのちを選別してしまうのは愚かな私のいのちの見方なのです。
 そんな愚かな私こそ阿弥陀さまはどのいのちもかけがえのない大切な我が子よと見てくださっています。
誰も代わりはいない一人一人を分け隔てなく親子のように愛し
もう二度と迷い続ける命にはさせないと願ってくださっています。
 
 迷い続けその迷いのなかに自分でも気づくことができない自ら悟りを開くこともできない私に
阿弥陀さまが一子地といわれる悟りの境地を得させようとすべて必要なご準備をしてくださり
迷い続ける人々を必ず救うと願いを起こされたのです。
 
 私たちのいのちは阿弥陀さまから一子地と願われたいのちであります。
一人一人が親子のように思い願ってくださり必ず救おうと一人一人に届いてくださっているのが阿弥陀さまなのです。
 私たちのこの命は阿弥陀さまに願われたいのちです。
阿弥陀さまのおはたらきによりお浄土へと参らせていただく一子地という悟りの境地を得させていただいている
阿弥陀さまのお救いをご一緒に喜ばせていただきましょう。
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.8)
 
お仏飯のお供えが難しいのですが……
 昨日はじめてのご縁でご門徒になったお家にお仏壇を申される入仏式のお勤めをさせていただきました。
そのお家はおばあちゃん一人の生活になってお仏壇のお給仕はおばあちゃんの役目になります。
 
 お勤めの後で「お仏飯は奥にお供えしないといけませんか」と別所帯の奥さんから質問がありました。
この本堂のお内陣のお荘厳のようにお仏飯は阿弥陀さま、親鸞さま、蓮如さまの前にそれぞれお供えします
これは基本ですということをまずお話しました。
 
 この質問が出たのは、おばあちゃんがお仏飯をお仏壇の奥の御三方の前にお供えするのが難しいということなのです。
仏壇屋さんから奥にお供えしやすいお道具をいただいているとのことですが、それを使うのもおぼつかないというのです。
 
 それでこう言いました。
朝ご飯を炊いたときは一番にお仏飯を仏さまにお供えしてください
お供えすることについては奥の所定の位置ではなくてもすぐ手の届く近い所にお供えして
お灯明をつけお線香を炊いて合掌して御礼をしたらすぐ下げていいですよと
ただご法事やお彼岸とかの仏事、お正月など節目の時には決められたようにお荘厳してくださいと付け加えました。
 
 正しいお飾りがなおざりになると座っている私の方にロウソク立てや香炉が下りてくるというお話です。
お仏壇のお荘厳にはすべて意味があります。
 ご本尊の阿弥陀如来さまを中心としたお浄土のさとりの世界に
この私が救われていくという如来の本願念仏のお救いの法がそのまま形となって表されているということで
お荘厳一つでも大事に正確にしてくださいと申したことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.7)
 
仏壇仕舞いのご縁です
 昨日仏壇仕舞いのお勤めと仏さまをお迎えする入仏法要をお勤めしました。
 
 仏壇仕舞いのお家はもう三十年も留守のお家でご縁の方が年に一度東京から帰ってみえて
昨日久しぶりにお参りしましたが、家の中も家の周囲もよく片付いていました。
 ただお家はずっとそのままでお仏壇をご安置されていたのです。
このたび事情があって家を壊すということで仏壇じまいのご縁になったということです。
 
 御礼のお勤めといいます。
皆さんのお家もそうですが、お仏壇といってまん真中にご安置の御本尊の阿弥陀さまのお家です。
阿弥陀さまをお家の中心にいただき仏さまの大きな大きなご恩のなかに私たちは生かされて日暮しさせていただくのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つでこの人生を生き抜き命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき
仏さまに成らせていただく大きなご恩です。
 
 私たちのこの目に見える形でお仏壇の阿弥陀さま親鸞さま蓮如さまのご縁をいただいているということです。
今日こうしてお朝事にお参りの皆さんにこんなお話をしても的外れですが
お家にお仏壇があっても日々の生活のなかで仏さまにお参りし御礼ができることは中々難しいことです。
 
 まさに仏さまに背中を向けているような日暮しをしている私たちをそのまんま
この阿弥陀仏さまはいつも見てござる、見守ってござる、守られてあるということです。
 
 阿弥陀さまのご縁をいただいてそのことに気づいてくれよ
み教えを聞いてお念仏を申す身になってくれよという仏さまのご縁です。
 お家の中心にあって私たちを護ってくださった仏壇仕舞いのご縁と
これからもずっと私たちを護ってくださる仏さまをお迎えする入仏法要の尊いご縁をいただいたことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.5)
 
お寺に手伝いに来てください
 ある老僧のお話です。
お寺にお参りしなさい、お参りしましょう、お参りしませんかと呼びかけても中々お寺にお参りしてくれないが
今度お寺でこういうことをするから手伝いに来てくれないかと声かけするとお参りしてくれるというお話です。
 
 ご門徒衆に今度の報恩講などいろんな法要行事の案内をさせていただきますが
お参りする方は大体決まっています。
 皆さんお寺からの案内をどう受け取っているのか想像します。
またお寺からの案内かと文章を読むことさえせず、文面は日時や講師が変わるだけでいつもあまり変わりませんが
それこそ右から左へそのままゴミ箱に直行ということもあるかもしれません。
 お寺からの案内ですが、そのまま阿弥陀さま親鸞さまからのお手紙といただいてほしいと思いますし
これからも何度も何度も厭きることなくご案内させていただきたいと思います。
 
 ただお寺に手伝いに来てほしいと直接声かけできる人間関係、日頃からのご門徒さんとのつながりができたらと
老僧のお話を聞きながら思ったことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.4)
 
昭和44年、49年前の私を思います
 昨日は大海組内の親戚寺院のご法事にお参りしました。
お勤めの後のお斎の席で、昭和44年にそのお寺で勤まった法要の集合写真の話題になりました。
 
 今から49年前のことです。大海組の法中方も七條袈裟をつけて写っていました。
父もいました。44歳の時です。
 当時は政治の世界にあって県会議員の一期目で次の二期三期もと周囲の期待もあって
まさに飛ぶ鳥を落とすような絶頂期の頃です。
 実のところ次の二期目の選挙で落選することになります。
それで父の政治に対するけじめがついたのではないかと思います。
 お寺の事業に精を出します。庫裡そして本堂を当時は珍しい鉄筋コンクリート建てで新築しました。
そして新築なった本堂で昭和52年からずっと毎朝6時半のお朝事を勤めてきました。
 これまでの人生を振り返り大きな転機になる時代でした。
 
 昭和44年私は17歳の高校2年生でした。あの頃の生活を思い起こします。
その時父はどのように私を見ていたのかなとまた思います。
 
 写真に写った顔の表情からその人人の生活ぶりをちょっと勝手に想像します。
幸せいっぱいの時だったかもしれません。大きな苦しみ悩みを抱えていたのかもしれません。
ただ皆さんお念仏のご縁つながりのなかに生かされて生きていたということです。
 
 大方皆さんは同年輩の40代50代といった年齢ですが、写真では随分お年寄りのように見えました。
それは見る人の見方で、私たちも50年後には「えらい老けてるな」と見られるのでしょう。
 
 昨日のご法事のご縁でも思うことですが
ご先祖からのいのちの歴史お家の営みのなかに今こうして私があることをあらためて思います。
 そうしてこの私が円光寺の本堂の御仏前に座ってお勤めができるということを
有難いご縁だな思ってまた今日の一日を日暮しさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.11.3)
<<円光寺>> 〒870-0108 大分県大分市三佐3丁目15番18号 TEL:097-527-6916 FAX:097-527-6949