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お念仏を申す生活法話

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葬儀が済んで

2024-01-15
 葬儀が済んでしばらくして
お参りにみえる方がいらっしゃいます。

 「(亡くなったことを)知りませんでした」
ということです。

 新聞をみて後から知ったという方がいます。
地元紙に葬儀の案内を載せましたが
自分のお家で取っている新聞ではないといいます。
 今は新聞自体を取っているお家が
少ないということでもあります。

 こうしたことは口伝てに伝わるということがありますが
今は人間関係が希薄になったということでも
あるのでしょうか。
 誰かあの人が伝えるだろうと思って
自ら伝えないということもあるでしょう。

 遺族からいうと
皆さん個々人に伝えることは
時間的にも心情的にも憚られます。
 どうかその点はお察しください。

 葬儀が済んでも
仏さまのご縁はこれからも続きます。
 どうぞ思い立ったときにお参りください。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.15)

むなしくない「いのち」 ※転載

2024-01-14
 私たちはだれもが年を取り、病気にもなり
やがて死を迎えなければならないことを知っています。

 しかし、私たちはそのどれをも
自分には関係ない、まだまだ先のことだと考え
日々をおくりがちです。

 しかし、そのような思いは
いずれ打ち砕かれる日がやってきます。

 仏教はこのような私たちに
「この世も私自身も
いつも移り変わっていくものである」
と教えてくださいます。

 なかでも阿弥陀如来は、その移り変わっていくなかで
苦しみ悲しむ私たちを受けとめ
私たちの人生をむなしく終わらせてはならないと
「南無阿弥陀仏」のお念仏となって
いつでもどこでも私たちを救おうと
はたらき続けていらっしゃいます。

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」(高僧和讃)

 阿弥陀如来の本願のはたらきに出あったならば
人生がむなしく過ぎるということはありません。
「南無阿弥陀仏」の海のようなはたらきに抱かれて
煩悩だらけの私たちも浄土に往生し
仏さまにならせていただくのです。

 「南無阿弥陀仏」のお念仏は
あらゆる功徳が欠けることなく満たされていることから
海にたとえられます。

 海は清らかでも濁っていても
すべての川の水を受け入れ
すべての水を同じ塩辛い一つの味にします。

 これと同じように阿弥陀如来は
すべてのものを分け隔てなく包み込んでくださいます。

 葬儀、法事やお墓参りを縁として
変わることなくはたらきつづけてくださっている
阿弥陀如来に出あわせていただき
むなしく過ぎることのない
お念仏の日々を送らせていただきましょう。

          ※前田壽雄 著『仏事Q&A』より 

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.14)

往って来ます

2024-01-13
 お寺の本堂阿弥陀さまの御尊前で
お葬儀のお勤めをさせていただき
火葬場に出棺します。

 本堂から山門に続く参道を
棺をお供して山門をくぐり霊柩車に乗せます。

 野辺の送りです。
昔は「南無阿弥陀仏」の御旗を先頭に
葬場から火葬場まで歩いて行ったそうです。

 葬送といい送るのです。
この目で見るのは火葬場ですが
阿弥陀さまのお浄土に送ります。

 お念仏申して「往ってらっしゃい」と送り
「往って来ます」と送られます。

 私たちの日々の生活の中でも
「いってらっしゃい」「いってきます」と
何度も声を交わして家人を見送り見送られます。

 行く所がお互いにわかっているから
安心して見送り見送られるのです。

 棺が行くのは火葬場ですが
お念仏のご法義をいただくと
私たちが命終わって往くところを
阿弥陀さまはお浄土と決めてくださっている
という教えなのです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
お浄土に往生し仏に成らせていただきます。

 「いってきます」は
行って帰って来るという意味で
行きっ放しではありません。
 再び家に帰って来ることで
安心して見送れるのです。

 「往って来ます」とは
お浄土に往って仏さまと成って
迷いの衆生を救うために
この世に還って来るのです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきです。
「浄土にうまるる因も果も 往くも還るも他力ぞと
ただ信心をすすめけり」(しんじんのうた)

  悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただいて
仏法聴聞しお念仏申す身にお育ていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.13)

賑やかに通夜のご縁です

2024-01-12
 お通夜は夜伽(よとぎ)ともいいます。
お伽話(おとぎばなし)ということで
夜を通してお話をするご縁といわれます。

 小さい頃、お母さんやお祖母ちゃんが添い寝して
お伽話を読んでくれる中にすやすやと眠りについた
思い出がありませんか。

 通夜勤行のお勤めの後で通夜振る舞いという
親族有縁の方が残って会食する習わしです。
 近くに住んでいる親戚縁者でも
日頃は滅多に会うことはなく
「久しぶりです。お元気ですか」に始まり
近況についての話から
先に往かれた方の話になります。

 ああやったこうやったという懐かしい話ですが
お酒も入り気分も砕けてくると
今だから言える聞ける話も披露されて
「そんな話始めて聞いた。知らなかった」ということで
盛り上がります。

 しめやかな悲しみのご縁ですが
賑やかなご縁でもあります。

 御仏前に有縁の方が多く集まり
ご一緒にお勤め仏法聴聞させていただく
仏さまのご縁です。

 振り返れば色んなことがあった人生です。
楽しいことも嬉しいことも
苦しいことも悲しいことも
自分の都合で良かった悪かったということですが
どんなときにも阿弥陀さまがご一緒してくださる
南無阿弥陀仏のいのちの物語です。

 お念仏のみ教えに遇えて
あなたに遇えて本当によかった
「いい人生だった」と聞かせていただきます。

 人の命終えてお浄土の仏さまとなり
これからも私たちにご一緒してくださいます。

 南無阿弥陀仏のいのちの物語は
これからもずっと続きます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.12)

お悔やみにまいる

2024-01-11
 母が昨日午前に病院で命終え
懐かしいお家に帰ってきました。

 ご遺体を庫裏の仏間にご安置して
お導師に臨終勤行のお勤めをいただき
早速近隣のお寺さんがお参りにみえ
主な親族がかけつけます。

 昨日の夕方から今日にかけて
隣保班の方々がお悔やみに来られます。
「生前中は大変お世話になりました。
ありがとうございました」と
互いに挨拶を交わし御礼を述べます。

 お悔やみです。
「ご愁傷さまです」
「寂しくなります」
「お悲しみのことと存じます」と
声も途切れとぎれに言われます。

 死にざまはそれぞれで
高齢者ともなれば「大往生ですね」と言ったり
闘病の末にという方には「安やかにお眠りください」と
偽らざる気持ちを吐露する人もいるでしょう。
 事件事故ともなれば「残念無念ですね」と
ご遺族の気持ちを代弁するようなことでしょう。

 何はともあれ大切な人の死は
悼むものであり悔いが残るものです。

 親鸞聖人は関東の門弟の死の知らせに
「往生めでたし」とお手紙を送っています。
 何か不謹慎な言葉に聞こえますが
お念仏のご法義をいただくと
「往生めでたし」なのです。

 浄土真宗のご法義は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も阿弥陀さまのお浄土に往き生まれ
さとりの仏さまに成るという教えです。

 どんな人もどんな生き方死に方であっても
私のいのちの往く先は阿弥陀さまが
お浄土と決めてくださっているのです。
 
 私たちは別れを受け止めきれるほど強くないし
いのちの行方がわかる智慧もありません。
 だから、阿弥陀さまはお浄土を用意され
必ず生まれさせると今ここにはたらいているのです。
 お浄土があるからこそ
私たちはこの人生を生きて往けるのです。

 先に往かれたお方はお浄土で仏に成って
還相回向の南無阿弥陀仏のおはたらきで
この世に還って来るとお聞かせいただきます。

 まさに命がけでこの私を御仏前に座らせ
仏法聴聞させてくださり
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「私がいるよ大丈夫だよ」と
はたらいてくださっているのですね。

 生きても死んでも
どんな生き方死に方であっても
私たちは阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きているのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.1.11)
 
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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