浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
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浄土真宗南無阿弥陀仏のお救い
 浄土真宗の救いです。南無阿弥陀仏の救いの法おはたらきです。
現当二益の救いといって、現在の救いと当来の救いといいます。
 
 浄土真宗は浄土に往生して仏に成るという死んでから後の教えだから、今は救われていないと言われる方がいます。
蓮如上人は浄土真宗は平生業成の教えだと、今まさに救われてあるとお示しです。
 
 帰る家がある安心です。お浄土がある安心です。
家にはまだ帰ってはいませんが、帰る家があると聞かせていただく今の安心です。今の救いです。
 
 現生正定聚の現益といいます。
この命終えて阿弥陀さまのお浄土に往生し仏に成ることを決めてくださってあるという安心こそ現在の救いであり
お浄土で大般涅槃の仏さまのおさとりを開かせていただくことが当益当来の救いです。
 
 現益と当益は別々のことではなく南無阿弥陀仏のおはたらき一つだと聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つに今もそしてこれからも命終わってからも
大きな大きな阿弥陀さまのお慈悲のなかに救われてあるといただけるのです。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきはいつでもどこでも誰にでものお救いです。
いつでもは今です。どこでもはここです。
そして誰にでもというのはこの私めあてにお救いくださってあるといただきます。
 
 ずっとずっとお立ち姿の阿弥陀さまです。
阿弥陀さまのおすがたをほれぼれと拝見し今日もこうして仏徳讃嘆のお勤めができたことの有難さ尊さです。
そのこと一つ心にいれて今日の一日もナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申す日暮しをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.14)
 
仏さまのご縁をいっぱいいっぱいいただきましょう
 昨日お葬式がありました。初めてのご縁の方でした。
一週間10日ほど前からご様子が悪いということで
もしもの時にはお葬式をお願いしたいという連絡があって
昨日の日曜日にお寺に相談にみえる予定でした。
その二日前のご往生でした。
 
 お顔を拝見しご遺族の方からお話を聞いて
初めて会う方ではなくて実はずっとずっと前から深い深いご縁があった方でした。
 
 ご縁といいます。ご縁をいただくといいます。
私たちの人と人との関係もご縁といわれます。
縁あって人間に生まれお母さんお父さんとご縁をいただきました。
 
 ただ今日こうして御仏前につらなる私たちのご縁は仏さまのご縁といただけるのです。
人と人とのつながりは生きている間のつながりということですが
仏教のみ教えを聞かせていただきますと、私たちのご縁は生まれる前からつながってあったというのです。
そしてこの命終えてもずっとずっとつながっていくというのです。
 
 このいのちのご縁こそ南無阿弥陀仏といただけるのです。
私の口からナンマンダブツナンマンダブツとお念仏が出てくださるというのは
南無阿弥陀仏の大きなご縁に遇って今を生かされてあるということです。
今までも生かされていたということであり、これからも生かされていくという広く開かれたご縁つながりであります。
 
 死のご縁は本当に悲しいご縁です。
悲しいご縁ですがこれから七日七日のご縁をいただくなかに
仏さまのみ教えをああそうやったああそそうやったと聞かせていただけるのです。
 仏さまのご縁を共々にいっぱいいっぱいいただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.13)
 
慶び事も悲しみ事もみんな仏さまのご縁です
 昨日はお寺さんの結婚式があり、先日はお寺で8年ぶりにご門徒さんのお葬式をお勤めしました。
結婚式は慶び事でお葬式は悲しみ事ですが、共通してご本尊の阿弥陀如来さまのご尊前で執り行います。
 
 今日のご縁もご本尊の阿弥陀さまを中心とした仏教壮年会の例会です。
一人一人それぞれ生活ぶりが違うお互い私たちが一つ処に集うことができるということです。
慶び事の縁であれ悲しみ事の縁であれみんな仏さまのご縁なのです。
 
 仏さまのご縁を私たちが一緒に一つ処でいただける
その一つ処こそ阿弥陀さまが私たちのために用有をしてくださってあるお浄土といただきます。
 
 ナンマンダブナンマンダブとお念仏申して自分の思い通りになるという人生ではありません。
人生は苦なりとお釈迦さまがご教示のように思い通りにならない人生を私たちは生きています。
 
 苦しみ悩み迷いのなかにあっても南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
阿弥陀さまが決して私たちを見捨てることなくご一緒してくださる人生を共々に歩ませていただけるのです。
そこにあなたに遇えたこの人生でよかったと安心できるお念仏のお救いがあるといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.12)
 
50回忌は昭和45年にご往生された方のご法事です
 昨日50回忌のご法事がありました。
50回忌といいますと昭和45年にご往生された方のご法事です。
 
 令和の元号になりました。
この前が平成ですが、私の年回の数え方では今は昭和94年です。
 50回忌の方の往生は、94から49を引いて45、昭和45年になるのです。
 
 50回忌と33回忌のご法事は昭和に亡くなった方になります。
あとは平成に往生された方でこれからは昭和と平成の二本立てで
今年は平成31年、来年は平成32年、再来年は平成33年ということになります。
 
 50回忌は49年前のことです。半世紀です。
人生の半分以上が経過しました。
 昨日も当時の話になりました。
家も周りの環境もすっかり変わった、生活ぶりも豊かに便利になったという話です。
 
 49年前はまだ学生時代、就職して間もない頃です。
遊んで回っていたとか親の言うことを聞かないで悪いことばかりして学校の先生にも怒られたとか
そんな話が次ぎ次ぎと出てきます。
 
 今は笑って話せることですが、親も周りの人たちも一体これからどうなるのかと
心配ごともたくさんあったと思います。
 ただ色々あるなかにもみんな元気で大らかだった時代がよみがえってきます。
 
 先人に育まれて今の私たちがあるということです。
これまでの歩みを振り返ることができるのもご法事の有難さです。
 そして今度は私たちが次の世代に伝えていくことです。
私が死んで50回忌のご法事の時に子や孫はどんなことを話すのでしょうか。
 
 最近はご法事を勤めないところもでてきました。
勤めても家族だけというご法事が多くなりました。
 本当にもったいないことだと思います。
ご法事は先人が今は仏さまとなって私と共に生きてくださってあると聞かせていただくご縁です。
 
 私が私がと自分を中心に生きることで人を思いやる気持ちが薄くなってきたように思います。
この目には見えないけれども先人の仏さまの大きなお慈悲のなかに生かされて生きてきた49年の歩みを
本当によかったと感謝の気持ちで振り返ることができるのもご法事の大きな意味だと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.11)
 
過去帳は南無阿弥陀仏のいのちのつながりの証です
 お寺には過去帳があります。
過去帳をそのままいうと過去にあった記録ということです。
 過去帳には先に往かれた亡くなった方故人の法名と俗名が書かれています。
往生年月日と年齢、そしてもう一つ施主喪主のお名前が書かれてあります。
 施主は亡くなった方ではありません。
現在ご存命の故人と深いつながりの方で続き柄が書き添えられています。
 
 故人は施主の父であったり母であったりということですが
施主のことでいえば過去帳は単なる過去の記録ではなく、施主に託された故人の思いがつまったものなのです。
 
 施主には務めがあります。
故人のご法事をお勤めさせていただくことです。
 お寺の過去帳を繰ってご法事のご通知を施主にさせていただきます。
円光寺では50回忌を最後にしていますが、故人の思いの代行です。
 
 仏さまのご縁をいただいて仏法を聞いてくれよお念仏申す身になって
この人生を精いっぱい生き抜いて阿弥陀さまのお浄土に生まれて来いよという思いです。
今は仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきで私たちをお守りしてくださってあるのです。
 故人の思いを施主はじめ有縁の方々がしっかり受けとめご法事のお勤めをさせていただくのです。
 
 私たちには戸籍があります。この世に生まれ生きている証です。
その戸籍は私が亡くなるとどうなるのか、×がつくんです。
 ×をつけられた故人の名前を見たときに死んだらお終いと思います。
それも×で終わるんです。
 
 人の命は必ず終わりがあることですが
私たちはお念仏一つのおはたらきでお浄土に生まれ仏さまに成らせていただけると聞かせていただきます。
 
 仏さまに成ったら×はありません。
無量のいのちをいただくのですから、過去帳には×はないのです。
ずっとずっとつながってあるんです。
 
 いずれみんな命終えていきますが、そのときも施主はいます。
お念仏のおはたらきのなかに先に往かれた方も後にのこった方もつながってあるのです。
ずっとずっとつながってあるのです。
 
 血のつながりということもそうですが
円光寺をご縁にお念仏のみ教えにつながった私たちお互いです。
 それぞれのお役目はありますが
大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかにあることの証がお寺の過去帳だといただきます。
 
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかにお互い生かされて生きてあることに思いを致し
今日もこうして皆さんと共々にナンマンダブツとお念仏を申して仏さまにお礼ができる身の幸せを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.10)
 
本当に痛ましいことです、悲しいです
 滋賀県の大津市琵琶湖畔の道路で交通事故があり
信号待ちしていた保育園児の列に乗用車が突っ込んで2人の2歳の子どもさんが死亡する事故がおきました。
 
 本当に痛ましいことです。悲しいです。
誰も事故をおこそうと思って車を運転する人はいません。
 事故をおこした当事者は大いに責められますが
いろんなことが重なって事故に遭い被害に遭われた方、そのご家族の心情はいたたまれないものだと察します。
 なぜ未来のある小さな子どもたちがこんなかたちで命を終えていかねばならなかったのか
不意に残酷なまでの不条理な事実を突きつけられ、悲しみ嘆いてもこの事実は変わりません。
 
 あらためて車の恐さを思います。まさに車は走る凶器です。
車は現代文明の利器であり、車社会はそれまでの生活を一変させ私たちは本当に便利な生活を享受しています。
 しかし車の運転が一般的になるにしたがい交通事故の件数死亡者数は右肩上がりに増え続け
近年は減少の傾向にありますが、今も男女老少を問わず多くの方々が交通事故で亡くなっています。
 
 車の性能がどんなに良くなっても運転するのは人間であり
人間の能力はどんなに科学が進歩しても良くなるわけでも発達するわけでもありません。
 最近では高齢者の運転死亡事故が目立って多くなってきています。
 
 安全運転を心がけても不意に車をコントロールできなくなり、その時車は大きな破壊力をもった凶器と化すのです。
所詮人間がすることでミスはなくなることはなく、この私がいつ加害者になってもおかしくないのです。
 
 今回の事故についてはこれからいろんな角度から検証がなされ
改善されることもたくさんあると思いますが
人間が車を運転する限り交通事故がなくなることはありません。
 
 善い人だから事故をおこさない悪い人だから事故をおこすということでもありません。
ただ自分は大丈夫と高をくくるところに多くの危険が潜んでいるのではないでしょうか。
 自分中心にどこか傲慢に生きているところがないか反省させられます。
自らの至らなさを思い知り謙虚に生きることが大事です。
 
 こうして御仏前に座りお念仏申して仏さまにお礼をさせていただきます。
仏さまの大きなお慈悲のなかに生かされてある私たちですが
縁がととのえば何をしでかすかわからない私だということも聞かせていただきます。
 我が身の事実にしっかりと向き合ってお念仏申すなかに今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.9)
 
お寺で終活のご相談です
 昨日お寺にご夫婦と長男三人の方が相談があるとみえました。
門徒になりたいということです。母屋が浄土真宗のお西で同じ宗派のお寺ということで来ましたといいます。
 
 門徒になるということは尊いご縁ですが、お葬式のご縁で門徒になる方が殆どで
前もって門徒になりたいと言って来られたケースはこれまでに数例あっただけです。
 
 その一例でお父さんが一人で門徒になりますとお寺にみえました。
門徒になってその後2年ほどしてその方が亡くなったのです。
 死を覚悟して後に遺る家族に迷惑をかけないように自分で死後の準備を済ませておこうと思ったのでないでしょうか。
そういうことで門徒になったのですが、家族には相談していなかったようです。
 お葬式の時にはお寺を決めてくれていてよかったと思いますが
それからのお寺との関係については家族にとってこんなはずじゃなかったという疎遠な感じがいまだにします。
 
 お話を聞いて、今門徒になっていただくのもお葬式のご縁で門徒になってもらうのもいいですよと言いました。
「お葬式のときでいいんですか」と声が返ってきました。
 それまで押し黙っていた奥さんと息子さんの表情が何か和らいだ感じになりお話もされるようになりました。
多分お父さんの独断で門徒になる話を進めていって二人には不安があったのではないかと思います。
 
 お葬式のご縁とは大切なご家族の方が亡くなるというご縁です。
お寺に連絡していただければお葬式のお勤めもしますしその時にご門徒になっていただきます。
 
 お父さんお母さん息子さんと一緒にお話ができて本当によかったです。
一人の思いで話を進めても結局お葬式は喪主の方が取り仕切ることになります。
 親であれば子どもです。
親の思いと子どもの思いが一緒かというと、そういう相談をすること自体中々できません。
 家族が亡くなったことを想定するわけですからね。まさに究極の終活です。
私が死んだらどこのお寺にお葬式をお願いしたらいいか家族で相談ができたということです。
「これで安心しました」と三人ともほっとした様子でした。
 
 こうした思いをもってらっしゃる方が結構いらっしゃるのではないでしょうか。
特に人口が集中する大分市内は県外から仕事等の関係で家を構え家族と共に暮らしている人が多いと思います。
 死んでから先のことは死んだ時に考えたらいいと言われますが、難しいです。
一日二日でお通夜お葬式をしなければいけません。
それで今はもうお寺に頼まない、お葬式をしないところが増えてきました。
かといって後から思い返してもああすればこうすればよかったと後悔する人もあるのではないでしょうか。
 
 お寺は死んでから後に用事があるところではありません。
死んでから後のことは今なんです。
今元気なうちに相談し今聞かせていただくことが大事だと昨日のご縁でまた思いました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.8)
 
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちは生かされて生きています
 一昨日からのお寺でのお葬儀を通じて
私たちは南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに生かされて生きていることを思います。
 
 本堂のお内陣は阿弥陀さまのお浄土を表します。皆さんのお家のお仏壇もお浄土です。
お浄土は阿弥陀さまのおさとりの世界、私たちが往き生まれるところです。
 阿弥陀さまがお浄土でお説法されているとお経さまに説かれています。
そのお説法が南無阿弥陀仏のお名号となって私たちのところに至り届き
「まかせよ救う」のおはたらきとなっていると聞かせていただきます。
 
 お浄土には南無阿弥陀仏のおはたらき一つで先に往生された方がいらっしゃるといいます。
先に往かれた方は今はお浄土の仏さまとなって阿弥陀さまのおはたらきのお手伝いをしてくださり
私のところに南無阿弥陀仏と還って来て私と共に生きてくださってあるというのです。
 
 浄土真宗のお寺でのお葬儀のお荘厳です。
お内陣がお浄土で、外陣の方にご遺体をご安置させていただきます。
 内陣と外陣を分けて段があります。
高い段で区切って阿弥陀さまのお浄土と私たちのこの世を分け隔てているのです。
十方衆生を分け隔てなく平等にそのまま救うという阿弥陀さまのみ教えからいうと何か違和感もあるでしょうが
実はこの段が大事なんです。
 
 私たちはこの命を生きている限りは自分中心の思いはからいを離れて生きることができません。
どこまでも煩悩具足の凡夫の身であります。
 この身を煩わし心を悩まして迷い苦しむ私たちを見て取って
阿弥陀さまがこの私をこそ必ず救うと本願をおこし南無阿弥陀仏となっておはたらきなのです。
今日もこの私の口からお念仏が出てくださる有難さを思います。
 
 今こここの私のために開いてくださった南無阿弥陀仏の救いの法です。
この救いの法を命がけで私たちに伝えてくださる仏さまこそ私たちのご先祖有縁の仏さまなのです。
人間の迷いの命を終えて浄土に生まれて仏さまと成ってくださってあるのです。
 
 ご遺体は火葬されてお遺骨となりお寺にお供してお勤めをさせていただきます。
お遺骨となって還るということで還骨といいます。
 お遺骨を私(住職)の胸に抱いてお内陣の阿弥陀さまのおそば近くにご安置させていただきます。
 
 お通夜からお葬式の一連の流れは私たちの目に見える形でこの世からお浄土への道すがらを説いてくださっています。
南無阿弥陀仏一つで救われるお念仏の仏道です。
 先に往かれた方もそうですがこの私一人のためにこの道を開いてくださってあるといただきます。
 
 お浄土から開かれたお念仏の道です。
お寺参りはお浄土参りに通じます。お寺のご縁をいただいてお念仏の道を歩ませていただきます。
 
 浄土真宗のお葬儀は南無阿弥陀仏のみ教えに遇わせていただける大きな大きなご縁です。
悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただいて
初七日に始まる中陰のお勤めを精いっぱいさせていただきましょう。
 
 このたびのお寺のお葬儀のご縁を遇って
南無阿弥陀仏の大きないのちに生かされつながってお互い生きていることに
私たちの救いがあると有難く安心しました。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.7)
 
お寺のお葬式
 今日はHさんのお葬式ということでこの後本堂のお荘厳をさせていただきます。
浄土真宗のご本尊の阿弥陀如来さまを中心にお勤めさせていただく浄土真宗のお葬儀です。
 
 昨日はあんのん館の御絵像の阿弥陀さまのご尊前でお通夜のお勤めをさせていただき
今日は本堂の御木像の阿弥陀さまのご尊前でお葬式のお勤めをさせていただきます。
 
 前のお内陣を見ていただいて平生のお荘厳です。
御正忌報恩講のような賑々しいお荘厳ではありません。
お彼岸やお盆、降誕会のお飾りとはまた違います。
 ただ悲しみのご縁ということで打敷を白にしています。
至ってシンプルです。
 
 阿弥陀さまのお救いは平生のお救いです。
南無阿弥陀仏の名号の仏さまとなっていつでもどこでも誰でものお救い
今こここの私を必ず救うといつもおはたらきなのです。
 
 その阿弥陀さまのお徳おはたらきがお内陣のお荘厳となって表れてくださってあるのです。
シンプルななかにも余分なものは一つもありません。
お飾りのすべてがこの私をお浄土に救い取ってくださる阿弥陀さまのおはたらきだと聞かせていただきます。
 
 有縁の方でお勤めされるお葬式ですが、お寺の本堂でお勤めする8年ぶりのお葬式です。
お寺のお葬式をこれからご門徒皆さんにすすめていこうと思います。
 どんなお葬式か、目に見える形でお飾りさせていただきます。
その一つ一つが先に往かれた大切な方と私たちをつないでくださる仏さまのご縁です。
 どうぞお参りください。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.6)
 
8年ぶりにお寺でお葬儀のお勤めをさせていただきます
 昨日の夜週に一度このお朝事にお参りされるHさんのお父さんが亡くなったという電話を受けました。
お家で亡くなってすぐお寺に連絡したということです。
 急なことでまだ葬儀社も決めていないといいます。
お母さんのときにお願いした葬儀社は今は営業していないというのです。
 
 この前円光寺通信にお寺でお葬儀をしましょうということを書かせていただきました。
それを読んでくれていたんだと思います。
またお朝事のご縁にお話を聞くなかでお寺でお葬儀をという思いがあったのではないでしょうか。
 それで早速葬儀社に私から連絡し、臨終勤行にお参りしてお話をさせていただき
お寺でお葬儀をさせていただくことになりました。
 
 お寺でのお葬儀です。
お寺の本堂のお荘厳は御本尊の阿弥陀さまのお浄土を表します。
この阿弥陀さまのお浄土に往生させていただくご縁が私たちの浄土真宗のお葬儀なのです。
 
 南無阿弥陀仏のお心おはたらきを聞かせていただきます。
私たちはどんな人も必ずこの命を終えていかねばなりません。
 人の命終わって死んだらお終いではなくて
この私をお浄土にそのまま必ず救い仏にさせると阿弥陀さまがおはたらきなのです。
 
 今日のご和讃です。「南無阿弥陀仏をとなふれば」と何度もでてきました。
お念仏を申すとは私が生まれ往くところをお浄土と決めてくださった南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくことなのです。
 
 お葬儀は大切な方とお別れする悲しいご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきます。
先に往く人もお浄土ならば後に遺るこの私も同じお浄土に生まれさせていただくことができると
日頃からご縁のあるお寺で共々にお念仏のみ教えを聞かせていただきます。
 
 8年ぶりのお寺でのお葬式です。
前のことはすっかり忘れてしまって昨日から前回はどうだったかなと思い出しながらのことですが
皆さんにもご加勢いただいて精いっぱいお葬儀のお勤めをさせていただきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.5.5)
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