浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
フォーム
 
「恩送り」ということ
 災害が各地で発生しています。
災害の報道を観てボランティアの方が土曜日曜の休みを利用して活動する姿は本当に尊いことです。
 
 ただ思いがあっても活動できない方もたくさんいらっしゃいます。
私にできるボランティア活動という新聞記事を読みました。
 
 貧困ということが今社会問題になり7人に1人の子どもが貧困状況にあって今日の食事にも事欠くということです。
 そんななかで奈良県のカレー屋さんの取り組みです。
1杯500円のカレーを食べた人が1000円払って1枚500円の「みらいチケット」を購入するそうです。
そのチケットは店頭に置かれ子どもたちが自由に使ってカレーを食べるそうです。
 19世紀のイタリアで始まった保留コーヒーということも同紙に紹介させていました。
同じシステムで自分が飲んだコーヒー代以外のもう1杯分の代金を置いて他の人に施すということです。
 
 小さな善意です。
私がしますしてあげますということではなく、私にできることをさせていただくということです。
 私にできること500円です、300円です。
お金の問題ではありません。
 気持ちを送るということです。
それも知らない人にですしそれを受けた人も負担に思うのではなく今度は自分が他の人におくるということです。
「恩送り」というそうです。
 
 「恩返し」ということはよく聞きます。
あの人に恩があるからあの人に恩を返すということです。
これは特定のあの人と私の関係です。
 
 「親孝行したい時には親はなし」といううたがありますが
恩返ししたいと思ってもその人がいなくなったらしなくてもいいということではないでしょう。
 
 そこで「恩送り」です。
自分が受けた恩を今度は次の人に送っていくということです。
知らない人でもいいのです。
 自分がお世話になったそのことを社会に還元するといいますが
他の人に送るのです。
 
 送られた人も誰から送られたか分からなくても誰かと確かにつながってあるということに安心でき
今度は私ができるようになったときに他の人に受けた恩を送っていくということにつながるのです。
 
 布施の精神そのものです。
布施の行はまさにそのことを教えてくれます。
 自分一人の幸せではなく他の人にもその幸せを喜びを送っていくということです。
 
 何か布施と聞くとどのくらいという金額の問題になったりしますが、布施は対価ではありません。
私にできる精いっぱいのことをさせていただくことが大事なのです。
 そのことが仏さまのお心おはたらきのお手伝いになるということをまた聞かせていただき
皆さんにお伝えしていきたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.5)
 
南無阿弥陀仏のいのちと光の仏さまに成ってくださいました。
 私たちの浄土真宗のご本尊の阿弥陀さまはどんな仏さまかというと
摂取不捨の仏さま、無量寿無量光の仏さま、智慧と慈悲の仏さま
いつでもどこでもの仏さまと色んな言い方がありますが
南無阿弥陀仏の仏さまといただきます。
 
 南無阿弥陀仏のお名号になってくださった仏さまです。
私のこの口からナンマンダブツと声になって出てくださる仏さまです。
 南無阿弥陀仏と無量のいのちとなり光となって私のところに至り届き
摂取の光明のおはたらきで私たちを摂め取って決して捨てない仏さまになってくださいました。
 
 阿弥陀さまのおはたらきはお浄土からのおはたらきです。
お浄土から光を放ち私たちをそのまま摂め取って必ず救うとおはたらきです。
 
 五濁悪世に生きる私たちです。
私が私がとどこまでも自分を中心に欲の心怒りの心愚かな心の煩悩を絶えずおこし
生きているお互いです。
 
 そういうなかにあって阿弥陀さまはどんな人も必ず救うとおはたらきです。
極端な言い方をするとどんな悪いことをした人もということです。
 それは他人のことを言っているのではありません。
この私のことです。
この私一人を南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救うてくださる
南無阿弥陀仏のいのちになってくださった仏さまといただきます。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すところに
「私がいるよ大丈夫だよ」といつでもどこでもこの私のところに来てくださり寄り添ってくださっています。
そのおはたらきはそのままこの私をお浄土に生まれさせていただくおはたらきなのです。
 
 お念仏一つのお救いのおはたらきです。
すえ通った修行の一つもできない私をもうすでに見抜かれて
これこれこういうことをしなければ救わないという仏さまではありません。
 
 お念仏一つで救うてくださるのです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでと阿弥陀さまのひとりばたらきで
この私がそのまま救われて往くのです。
 
 お念仏申してくれよとおはたらきです。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに
今日の一日もお浄土への人生を歩ませていただく一日といただいて
それぞれの生業に生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.4)
 
一年365日お寺はいつも生きています
 昨日大分合同新聞から子ども新聞という一年一回夏休み明けのこの時期に発行される新聞が届きました。
県内の小学生5,6年生が夏休みを利用して自分の興味のある所や仕事、社会のことについて
直接取材をして記事にするという企画です。
 
 その新聞に円光寺のことが大きく載っていました。
「みんながおまいりお寺の一日」というタイトルでした。
水曜学校の子ども会に来ている5年生の男の子の記事です。
 
 お寺のすぐ近くのお家ですからお寺の6時の梵鐘と6時半の喚鐘の音が聞こえるんでしょうね。
そのことがまず書かれてありました。
 お寺の一日です。どんな生活をしているのか興味があったんでしょうね。
 
 毎朝定時に鳴る梵鐘や喚鐘は機械が自動的についているのではなく、そこに人がいるということです。
6時半に朝のおつとめをして近所の方が来られるとありました。
 皆さんのことです。
記事にはありませんでしたが、ご一緒にお勤めをしてナンマンダブツとお念仏申し
仏さまにお礼をして皆さん私たちの一日が始まるということです。
 
 お寺が生きているということです。
生きているというのはそこに人がいるということです。
毎日何人もの人がお寺に出入りしてそれぞれのおつとめをしているということです。
 
 最後にお寺はどんな人も来れるところですというコメントがありました。
どんな人もです。それはお寺にいらっしゃる阿弥陀さまのお心そのものなのです。
 ただご縁がないと中々お参りするのは難しいことです。
だから鐘が鳴るんですね。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお呼び声です。
どんな人にも聞こえてきます。
うるさいなと思われる人もいるかもしれません。でも聞こえるんです。
 
 その仏さまの声が聞こえて聞こえてご縁になって今日の皆さん私たちになるんです。
お寺の一日、そこには人がいます。お念仏申す人がいます。
南無阿弥陀仏のおはたらきは朝だけではなくずっとずっと
いつでもどこでも誰にでも一年365日毎日止むことなく続いてあるのです。
 
 どうぞ皆さんこれからもお誘い合わせお参りさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.3)
 
「ご一緒にお念仏を申しましょう」
 今朝の空はうろこ雲が広がってすっかり秋の様相です。
長雨の影響か涼しいです。秋が早く来るような来たような気配です。
 
 さて最近お寺のご法座のご縁でちょっと気になることがあります。
ご法話お取り次ぎされる御講師が「皆さんご一緒にお念仏を申しましょう」と手を合わせお念仏を促すことです。
 その場の雰囲気ということもありますが何か不自然で違和感をもちます。
何か強制されているように感じられる方もいるのではないでしょうか。
 
 何が違和感かというと、御講師とお聴聞のお同行が向き合うなかでのお念仏なのです。
お念仏申しているのかな声が出ているのかな口が動いているのかななどと見られているような気がしてならないのです。
これはあくまで私の見方ですが皆さんはどのように思いますか。
 
 毎朝のこのお朝事の最後に「ご一緒にお念仏申しましょう」と言って
私も阿弥陀さまの方を向き直り皆さんとご一緒にナマンダブナマンダブとお念仏申します。
 共に阿弥陀さまの方を向いてご一緒にお念仏申します。
皆さん一緒に同じ方向を向けるということです。
 阿弥陀さまのお浄土です。
一人一人それぞれに生活ぶりが違うお互いが阿弥陀さまの御仏前に座り同一にお念仏できるということです。
 南無阿弥陀仏のご法義の有難いところです。
私たちが救われて往く手立てを南無阿弥陀仏一つに決めてくださり
私たちが往き生れるところをお浄土と定めてくださったということなのです。
 
 とはいえお寺の本堂やお家のお仏壇の前に来ないと阿弥陀さまを目にしないと
お念仏申せないというお念仏ではありません。
 生活のなかでナマンダブナマンダブってふと出るお念仏ってありませんか。
私が称えようと思って称えるお念仏ではありません。
私の口からふと出てくださるお念仏になってくださったということです。
 
 南無阿弥陀仏のお念仏はいつでもどこでも私が一緒だよという阿弥陀さまのお喚び声なのです。
お念仏申しましょうと言われて申すお念仏でもどんな時でもお念仏申していいのです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツと声に出してお念仏を申すとそのまんま聞こえてきます。
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのお喚び声です。
 いつも私が一緒だよどんなことがあってもあなたを決して見捨てることがないから安心して
この私阿弥陀にまかせてくれよ必ず救うという力強いおはたらきのお念仏なのです。
 
 日々の生活のなかでお念仏を申させていただきましょう。
お念仏が出ないと救われないのではありません。
 お念仏を申そうと思い立つ心のおこる時もうすでに
私たちは大きな大きな阿弥陀さまのお救いのなかにあるということを
今日の日暮しのなかにまた聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.2)
 
9月1日に思う
 今日9月1日は日曜日ですが、通常9月1日は長い夏休みが終わって学校の二学期が始まるという日です。
今朝新聞を開いて大きな一面広告が目に入りました。
去年9月に亡くなった女優の樹木希林さんの娘さんが書かれた本の広告です。
 「9月1日母からのバトン」というタイトルで「今日は、子どもたちの運命を分ける大切な一日。」とあって
短い文章が添えてありました。
 
 樹木さんが去年の9月1日病室で「死なないで、ね‥‥どうか、生きてください…」と繰り返し言っていたそうです。
娘さんはそれを見て気がふれたのではないかと思い話を聞くと
9月1日に学校に行けない子どもが多いというのです。
 学校でいじめにあったりして、夏休みの間は学校に行かなくてすみますが
9月1日になって学校に行かなければならない学校に行きたくないと思いつめ自殺する子どもたちが多いといいます。
 死なないでと、もったいないと、この命いただいて本当にこれほどもったいないことはないと樹木さんは言うのです。
 
 先日田畑正久先生のお話を聞きました。
先生が大分合同新聞にずっと連載しているコラムのタイトルが「今を生きる」です。
昨日を生きるのでもない明日を生きるのでもない今を生きる生き切ることが大事だというのです。
 ただこれは私が私がと生きるのではなく、仏さまのみ教えを聞かせていただくなかでのことですが
生かされていることに目覚めて生かされて今を生きるということです。
 
 何に生かされているのか。
自然の恩恵であり周りの人たちであり色んな命のおかげということですが
南無阿弥陀仏に生かされていると聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏のいのちが私を生きているということです。
阿弥陀さまが願っているこのいのちを生きているというのです。
 どんな願いでしょうか。
仏法に出遇って聞いてくれよといいます。
 あなたのいのちはかけがえのないいのちなんだよと。
人間に生まれたからには今度こそは迷いの境涯を離れてさとりの境涯に生きてくれよと。
同じ南無阿弥陀仏のいのちとなるいのちを精いっぱい生かされて生きてほしい願われているというのです。
 
 いのちが本当に愛おしく思います。
今日のこの一日です。
 今日今この命こここの私を南無阿弥陀仏の大きな大きないのちのおはたらきのなかに
生かされて生きてまいりましょう
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.9.1)
 
8月31日に思う
 今日は8月31日です。
今は夏休みが早く繰り上がってもう学校は始まっていますが
私が学校の頃は8月31日が夏休み最後の日でした。
 
 8月31日は私にとって良い思い出はありません。
夏休みの宿題を早く済ませてゆっくり夏休み最後の日を遊んで過ごせばいいのですが
最後の最後まで宿題に追われる始末です。
 早く宿題を済ませておけばよかったと悔やんでも仕方ありません。
 
 今日31日の御文章さまは「大聖世尊の章」です。
まさに一月の終わり31日にあって人生の終わりに重ねて私たちのあり方を教えてくださいます。
 
 どんな人もこの命いつか必ず終えていかねばなりません。
まさに無常の世に生きる私たちですが
「ただいたずらに明かしいたずらに暮らして年月を送るばかり」と私たちの生活ぶりを指摘されます。
それこそ明日がある明日があると宿題を先送りにして日々生きている私たちです。
 
 それこそ嘆かわしいことはない本当にもったいないと言われ
阿弥陀仏の本願念仏の法に遇うことをすすめられるのです。
 「何のために人間に生まれてきたのか、生きているのか」「死んだらどうなるのか」という人生の宿題です。
仏法に聞かせていただきましょうと、仏法に遇うために人間に生まれて来たのですよというのです。
 
 臨終です。この人生の終わりに臨んで不安や苦悩が交錯するなかで仏法を聞かせていただくことは甚だ難しいです。
だからこそ南無阿弥陀仏の法に早く出遇ってほしいというのがこの御文章さまのお心なのです。
 
 南無阿弥陀仏のお念仏となって今こここの私のところに至り届いてくださっているのです。
南無阿弥陀仏「我にまかせよ必ず救う」と喚び通しに喚びかけおはたらきになっている
阿弥陀さまのお心を聞けよというのです。
 それは今です。今聞けよというのです。
いたずらに毎日を過ごしている私たちをすでに見抜かれた阿弥陀さまが
座っておれなくて立ち上がってそのまま救うとおはたらきになっているのです。
 
 8月31日夏休み最後の日です。
人生最後の日と重ねてお念仏を申すなかに今日一日も日暮しさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.31)
 
ようこそお参りなさいました。ありがとうございます
 朝から大雨の中をようこそお参りなさいました。
昨日はコンパルホールで年一回の大分まちなか法話会をもちました。
お二人の先生にご出講いただいて準備から何やらで終わって少々疲れ気味です。
 
 大変多くの方にお集まりいただきました。
いつも申していることですが、これは人数ではありません。
その人人がご縁に遇うことが大事なのです。
 ただ主催する方は一人でも多くの方にお参りしていただきたいと思いますので
30分ぐらい前から開会の時間が近づくほどにまだかなまだかなもう少しもう少しと皆さんをお待ちしたことです。
 
 円光寺のご門徒も大海組の他のお寺のご門徒ご縁の方もお参りでした。
なかには初めてお会いするような方もいらっしゃいました。
 ご門徒中ご縁の方々にできる限りチラシを送ってご案内し重ねて個人的に声かけをしてお誘いしました。
そしていつもご縁のあるご門徒有縁の方が私と同じ気持ちをもって
ご家族お友だちお一人お一人に声かけをしてくださったことだと本当に有難く思います。
 
 仏さまのご縁に遇うということです。
何かいつでも思い立ったらできそうでこれが中々難しいのです。
 私たちの思いです。
今日のお朝事もこんなに雨が降っていたら「雨が降るから今日はお休みしよう」という気持ちにもなるのが私たちです。
ただ皆さんが違うのは、皆さんがお朝事の主催者になっているということです。
 阿弥陀さまの正客です。
私たちはただのお客さんではないということです。
 私がお参りしなかったら誰がお参りするのかといった思いが皆さんにはあるのではないでしょうか。
 
 昨日のことでいったら誰彼から誘われて一緒に来られた方もたくさんいらっしゃったと思います。
それがご縁になるのです。
仏さまのご縁になって今度は自ら隣の人に声かけをしお誘いするようになるとしめたものです。
ほんものになるのです。阿弥陀さまの正客になるのです。
縁ある人にお誘いしてご一緒して仏さまのご縁に共々に遇わせていただこうという尊い思いです。
 
 昨日もお寺からご本尊の阿弥陀さまのお仏壇をお供して参りました。
仏さまのご縁です。
 コンパルホールという場所ですが仏さまのご縁をいただけるのです。
仏さまのご縁はお寺だけのご縁ではありません。
 皆さんのお家でいったらお仏壇です。
お仏壇のお仏間でご家族一緒に仏さまのご縁をいただきます。
 
 仏さまのご縁はいつでもどこでもこの私のために開かれているのです。
ご縁ご縁に仏さまのご縁に遇わせていただきましょう。
 そのこと一つ皆さんお一人お一人にお伝えさせていただくなかに昨日第5回の法話会ができました。
本当に尊いこと有難いことこの上ありません。
 ご縁いただいてこの私が阿弥陀さまの御仏前に座らせていただけるのです。
そして私の隣にもご縁の方々がご一緒です。
お念仏申して共々にお浄土への人生を歩ませていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.30)
 
我が名をよんでくださってあるお念仏です
 京都アニメ―ションの放火事件で35人の方が亡くなり10名の方が実名を公表されていましたが
他の25名の方の実名がこのたび公表されたということです。
 
 今朝の大分合同新聞の「東西南北」欄にありましたが、35人の中に大分県出身の方が一人いらっしゃたということです。35名といって大変重大な事件だということですが特に関係のない方にはいつか忘れられてしまいます。
 そのなかでそれこそ近所の小さい頃からよく知っていた人がいらっしゃったということです。
その人のお父さんも母さんもいらっしゃった、おじいちゃんもおばあちゃんもいらっしゃったというなかに
事件のことをわが身のこととして生活のなかに実感することがあるというのです。
 
 数字だけのことではありません。
35人それぞれにその人その人の生活がありその人その人の人生があったということです。
 その人人に思いを寄せるなかで、痛ましい事件ということを身近に実感し
このような事件は二度と起こしてはいけないと反省し忘れないで思っていくのが私たちのつとめだと思います。
 
 実感ということです。
さて皆さん阿弥陀さまに救われているという実感がありますか。
 阿弥陀さまのお救いのみ教えを聞いても耳の右から左へ通り抜け
その時は「そうやな、有難い阿弥陀さまのお救いやなあ」と思うことがあっても
私たちの日々の生活のなかで実感するということは中々難しいことだと思います。
 
 ただ阿弥陀さまという仏さまは私たちがどう思うか思わないか感じるか感じないかにかかわらず
常にこの私に寄り添い必ず救うとおはたらきの仏さまになってくださったという教えなのです。
 
 十方衆生を救うといって何人救うという人数ではなく
その人その人一人一人この私に寄り添ってくださってあると聞かせていただくのです。
 この私をこそ救わずにはおかないとすっと立たれたおすがたがこの前の阿弥陀さまであり
この私をこそ必ず救うと仕上げられたのが南無阿弥陀仏のお名号お念仏だということです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに私を喚んでくださっているのです。
我が名をもって喚んでくれてるのです。
 
 そのこと一つ心に入れてお念仏を申すなかに
いつでもどこでも阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって「我にまかせよ必ず救う」と
それこそ叫ぶように何度も何度も喚び通しに喚んでくださってあると
日々の生活のなかに聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.29)
 
私の依って立つところ
 この時期にしては珍しい長雨でそれも大きな雨になっています。
雨の中を今日もようこそお朝事にお参りなさいました。
 
 私事ですが最近色んなことがあってといいますか
昨日も別府の別院で大きな会がありその後会議もあったりして何やかんやで
一体何をしているのかよくわからないフラフラしている状況で
こんなことではいけないしっかりしないといけないと力が入ります。
 
 よくない状況から立ち直るといいます。
依って立つところに立ちかえるのです。
帰るところです。
 
 「帰るところがある安心」といいます。
皆さんこれからお家に帰りますね。
帰る家があるから安心して今があるということです。
 
 お念仏のご法義に重ねて
この命終わって阿弥陀さまのお家お浄土に生れさせていただけると聞かせていただきます。
 死んだらお終いではなくて帰るところがあるというのです。
だから安心して今生を生きていけるというのです。
 
 さて現実生活のなかで帰るところです。
このお朝事というご縁が私の帰らせていただくところだといただきます。
 何かいつも同じようなことを繰り返してしていることですが、これがいいんですね。
 
 毎朝6時半です。
円光寺の本堂阿弥陀さまの御前に座らせていただけるのです。
私の依って立つところ、帰るところです。帰依所です。
 それも私一人ではなく皆さんと共々にこのお朝事のご縁、お正信偈さまのお勤めをさせていただけるというご縁です。
そしてこの口からナンマンダブツナンマンダブツとお念仏が出てくださいます。
それも私もそうですが、皆さんもそうです。
皆さんもナンマンダブツナンマンダブツとお念仏を申すなかに立ち返らせていただく、立ち直るのです。
 
 フラフラフラフラしてる私を南無阿弥陀仏がいつも支えてくださってあるということです。
南無阿弥陀仏、阿弥陀仏に南無します。
帰命無量寿如来、無量寿如来に帰命します。
南無不可思議光、不可思議光仏に南無します。
 
 南無も帰命も依りどころとさせていただくということです。
私が依りどころとすると私に力が入るのではなく
阿弥陀さまの方でこの私をこそ必ず救うと南無阿弥陀仏のお名号と仕上げてはたらいてくださってあるのです。
 「よりかかれよりたのめ」とお念仏となって私を喚んでくださり
いつでもどこでも私阿弥陀が一緒だから安心して今日の一日も共に生きて参りましょうと
私の口からお念仏が出てくださいます。
 
 毎日毎朝こうして皆さんと共々にお念仏申させていただくなかに
フラフラフラフラしてる私が立ち直させていただけるのです。
お念仏のご法義の有難さ頼もしさをまた思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.28)
 
死んだらゴミになるのではありません
 生活するなかにゴミがいっぱいでます。
ゴミというのは生活に必要がないものです。必要なものは取っておいて必要のないものはゴミに出します。
大きなごみ袋にいっぱいゴミをつめてゴミ箱に入れると、何かすっきりします。
 ゴミを捨ててゴミが我が身から離れるのです。
ただこのゴミの行方です。
ゴミを出すことでそのゴミが無くなるのかというと、ゴミ収集車が来て持って行って焼却処分をしたりとか
再利用したりとかして全く消えて無くなるということではありません。
 
 人間死んだらゴミになるとある識者が言われました。大変なインパクトがありました。
死んだら火葬されます。火葬されるとお骨と灰になります。
骨壺に入れますが全部入るわけではありません。残ってものがゴミとして捨てられるのです。
 
 でも皆さんどうですか、皆さんの大切なお方とお別れをしてお遺骨はこの目に見える形で残ります。
捨てられますか。お骨はゴミですか。
 たとえ他の人がゴミだと言ってもゴミではありませんよね。
だからこそ骨壺に入れてご安置するところに納骨するのです。
 
 一昨日納骨堂に新たに納骨された方がありました。
そのお方は一年以上前にご往生されましたがその時は納骨堂がいっぱいでした。
それで方々納骨堂をさがしたそうですが、その間お遺骨はずっとお家でご安置されていました。
 このたび納骨堂に空きができたということで一昨日十数人ほどのご縁の方がお参りされて納骨されたことです。
子どもさんもいました。おばあちゃんでありお母さんのお遺骨の行く先です。
ゴミに出して安心するのではありません。
その行方をここだと決めてお墓や納骨壇にご安置できるということです。
 
 決まったところにご安置できることはまた会いに行けるということです。
会いに行って手が合わさるのです。
それも一人ではなくご家族ご親族みんなで会いに行けるのです。
 
 納骨堂は明るいうちは開いていますからいつでもご自由に本堂から入ってお参りしてくださいとお話しました。
ご縁です。お寺参りのご縁がいよいよできるのです。
 先に往かれた大切なお方がつくってくださったご縁です。
仏さまです。大切なお方をこれからも仏さまと仰いでいけるのです。
 
 死んだらゴミになるのではありません。
人間の命を終えて南無阿弥陀仏のおはたらき一つで私たちを仏法の世界に導きお念仏申す身にさせていただく
仏さまに成ってくださるのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.8.27)
<<円光寺>> 〒870-0108 大分県大分市三佐3丁目15番18号 TEL:097-527-6916 FAX:097-527-6949