浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
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懐かしい方々が往ってらっしゃるお浄土に私もまた生まれさせていただきます
 昨日お寺のご院家さんのお葬式にお参りしました。
近くのお寺のご院家さんと門徒の総代さんの弔辞があって最後に喪主の挨拶がありました。
 お寺のお葬式の弔辞や挨拶はお念仏のご法義が中心になりますが
日頃の生活ぶりが思い起こされるものでたくさんのエピソードがでてまいりました。
 私も生前何度かご一緒することがあって
その人となりを懐かしく思い浮かべました。
 
 人との付き合いを大事にされる方で
お酒を酌み交わしおいしいものを食べに歩いたというお話ですが
最後の喪主の挨拶が特に印象に残りました。
 
 お葬式で住職の父がご門徒の方を見送るときに必ずお話していたことで
お父さんお母さんがいる懐かしい方が往ってらっしゃるところに往くと思ってお念仏申して送りましょうということです。
 
 阿弥陀さまのお浄土です。
お浄土にはお父さんお母さんが往って待ってらっしゃるおじいちゃんおばあちゃん懐かしい方々が往ってらっしゃる
そのお浄土にお参りさせてもろうたと思うてお念仏申してこれからの日々の生活をさせていただきましょうとね。
 
 いろんなエピソードからその人となりを偲ばせていただきます。
日頃周りの方々からどんな人と思われているかなということです。
 
 どんなご院家さんと思われていたのか
門徒総代さんの弔辞にありました。
 いつもほうきをもってお寺の境内を掃除していたといいます。
いつもといっていつもではありませんがそういうことが一番に思い出されるご院家さんだったということです。
 みんながみんなということでもありません。
その人その人それぞれにこれからも日々の生活のなかに思い出していくんでしょうね。
 
 人の命は終わりますが死んだらおしまいではなくて南無阿弥陀仏の大きないのちにつながって
これからも共々に生かされて生きていくのです。
 お寺の境内を見るときにご院家さんの姿が見えるんでしょうね。
ナンマンダブツとお念仏を申すご院家さんです。
 ナンマンダブツとお念仏を申すなかにお父さんお母さん懐かしい方々が往ってらっしゃる
同じお浄土に私もまた生まれさせていただけると聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.22)
 
愚者になりて往生するお念仏の仏道です
 今日のご和讃は高僧和讃の第七祖源空(法然)聖人を讃えるご和讃です。
親鸞聖人が在世で実際にお会いになった方は法然聖人ただ一人です。
 この法然聖人のことを親鸞さまは勢至菩薩とも阿弥陀如来の化身とも慕われておられたということです。
勢至菩薩というお方は阿弥陀如来さまの脇侍でもう一方が観音菩薩です。
勢至菩薩は智慧のおはたらき観音菩薩は慈悲のおはたらきの菩薩さまです。
 
 智慧第一といわれた法然さまです。
その名は比叡山はもとより広く知られたところでしたが
法然さまは比叡山を下りられ京都東山吉水という庵で「念仏ひとつで救われる」専修念仏の仏道を説かれました。
 智慧第一といれるほどですから仏典の隅から隅までお勉強し尽くしたお方ですが
法然さまの常の仰せは「浄土宗の人は愚者になりて往生す」とのことだったと
親鸞さまは関東の門弟へのお手紙に書かれています。
 
 愚者になりて往生すと念仏ひとつで救われる専修念仏の仏道を説かれていたのです。
知恵才覚があって善行を修めて救われる仏道ならば
日々の生活に明け暮れる凡夫は到底救われることはないが
すべてのものが分け隔てなく救われる仏道を求めて
法然さまは聖典の中に阿弥陀さまの本願念仏のお救いこそ
賢愚の別なく愚者も救われる仏道があると見抜かれたのでした。
 
 法然さまが説かれる専修念仏の仏道の教えに遇われて
親鸞さまは「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしとよきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」と
念仏ひとつで救われる仏道に帰入されたのです。
 
 親鸞さまが愚者の私こそめあての南無阿弥陀仏のお救いだと法然さまから聞かせていただいた喜びを
ご和讃の一首一首に味わわせていただき明日が高僧和讃の最後六首になります。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.21)
 
どんな人も見捨てない阿弥陀さまのお救いです
 新型コロナウイルス感染でダイヤモンドプリンセス号に乗っていた方が
検査の結果もう心配ないということで順次下船して懐かしいお家に帰られるということです。
 
 喜ばしいことですが半面不安や心配がつきません。
一つは果たして本当に感染していないのだろうかという心配
もう一つは周りの人からどのように見られるのかという不安です。
 
 フランスパリ郊外の日本料理店で「ウイルスは出ていけ」と落書きされたという事件です。
中国から発生して日本東南アジアを中心に感染が世界各国に広がっています。
 落書きに人種差別といったことも危惧されます。
 
 私たちの立ち位置を思います。
私が感染を疑われる立場だったら本当に怖いということですが
逆な立場でしたら今回の事態をどう見るのでしょうか。
 
 感染を防ぐということで隔離ということがいわれます。
隔離される方にとって不自由なことを強いられることはとてもつらいことですが
隔離の事実がその後の偏見や差別につながるという怖さです。
 私たちの歴史が物語ります。
そして今もなお差別や偏見に苦しんでらっしゃる方がいることを私たちは忘れてはいけません。
 
 他の人のことではなく私のことです。
どこまでも自分を中心に物事を見てとらわれはからう私たちです。
 そのことを仏法に聞かせていただきます。
阿弥陀さまのお救いは感染をした人もしていない人もどんな人も等しく必ず救うとおはたらきです。
 南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなかに私たちは共々に平等に自由自在に
この命を生かされて生きていると聞かせていただきます。
 
 ただ難しいです。
私たちはこの身を抱えて生きていく限りは私を中心に生きていますからね。
 だからこそどうかお念仏のみ教えを聞いてほしいと願われているんでしょうね。
大きな大きな世界に生まれて来いよとおはたらきなんでしょうね。
 
 私たちの小さな小さなはからいの中に大きな大きな苦しみ悩みがあると見抜かれたうえで
阿弥陀さまは今日も私のところに南無阿弥陀仏とはたらいてくださっているのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.20)
 
無量のいのちに生かされて
 今朝梵鐘をつきに玄関から鐘楼に向かいましたら山門の上空に三日月が輝いていました。
まだ暗い冬の寒中に三日月が冴えわたり今朝は大変冷えます。
今年一番の寒さという予報です。
 寒い中に自然の営みがあります。
大自然のなかに生かされて何かホッとします。
 
 昨日ずっと本を読む時間があって寿命ということを教えていただきました。
寿命の寿はことぶき命はいのちです。どちらもいのちと読めます。
 私たちの阿弥陀さまは「帰命無量寿如来」とお正信偈さまにあるように無量のいのちの仏さまになってくださいました。
 
 阿弥陀さまのいのちと私のいのちはどう違うのでしょうか、同じなのでしょうか。
私たちの命はどんな人もおぎゃあと生まれてそして命終えるという限りある命です。
 この限りある命を支えてくださってあるのが無量の寿限りないいのちなのです。
仏さまの無量のいのちはこの私の目には見えません。
 
 ではこの私のいのちはどうでしょうか。
見えますか見えませんか。
 私たちは見えると思っています。
だからもっともっとこうなりたいこうしたいああしたいという思いが出てくるのです。
 今の私に満足しないのです。
私の目に見える理想のいのちを求めてどこまでも満足しません。
 
 ただこのいのちの見方でずっと行くと最後は私のいのちは追い求める理想とは逆の結果に終わります。
若くありたいと思っても老いていきます。健康でありたいと思っても病気になります。
そしてこの命いつか必ず終えていかねばなりません。
 
 老病死にとらわれはからいのなかに私たちはずっとずっと迷ってきたのです。
この迷いのいのちをそのまんま引き受けたというのが無量寿の仏さまの南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
 そのおはたらきはこの私の命は限りがありますが命終えた後もずっと無量に引き受けてくださるのです。
私たちがこの人間界に生まれて来る前から引き受けてくださっていた無量のいのちなのです。
 
 ただこの目には見えません。
だから聞いてくれよというのです。
 私の目には見えないけれども南無阿弥陀仏の無量のいのちのおはたらきに支えられて
今日の一日もナンマンダブツとお念仏を申して生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.19)
 
百か日のご縁です
 昨日百か日のご縁にお参りしました。
ご主人とお別れして100日が経ったということです。
 その前のご縁が四十九日です。
四十九日から百か日までほぼ同じ時間が経ったのですが
大切な人が生活の中からいなくなったという喪失感です。
 日々の生活のなかで事あるごとに生前のことを思い出し寂しさや悲しみを感じられることではないでしょうか。
朝起きて「おはよう」と声を交わす、一緒に食事をする
「いってきます」「いってらっしゃい」と職場に見送り見送られるという
当たり前にできていたことができなくなったということです。
 喪失感に悲しみ嘆く私たちがいます。
 
 悲惨にくれるこの私をほっとけないとおはたらきの阿弥陀さまのご法義です。
悲しみのご縁をそのまんま仏さまのご縁といただけるのが百か日のご縁であり
初の盆一周忌というご縁につながっていくのです。
 
 そこのお家にはお仏壇がありませんでした。
この度のご縁でお仏壇を申されました。
 昨日もご本尊の阿弥陀さまに向かい私そして奥さん息子さんの3人でお勤めができました。
ご一緒に同じ方向を向くことができるのですね。
 その向く先は阿弥陀さまのお浄土です。
阿弥陀さまのお浄土に大切なお方が往ってらっしゃるとお聞きします。
そして往き放しではなくって今こここの私のところに南無阿弥陀仏と還って来てくださり
ナンマンダブツと私の口からお念仏となってご一緒してくださるのです。
 四十九日からもずっとご一緒でしたしこれからもずっとご一緒です。
 
 愛する人と必ず別れ離れなければならない苦しみです。
悲嘆にくれる私たちにいつでもどこでも南無阿弥陀仏のおはたらきで寄り添ってくださる
お念仏のご法義を有り難く頼もしく思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.18)
 
お寺のご縁お念仏のご縁です
 昨日は仏教壮年会の総会懇親会のご縁をいただきました。
お寺の集いです。
 阿弥陀さまを中心に皆さんが気持ちをもって集まりご一緒にお勤めをし総会でいろんな相談事をしました。
懇親会でお酒を酌み交わし日頃のいろんな思いをお互いに語り合うというご縁でもありました。
 
 皆さんにお酒をついで回っていろんな話になりました。
一対一の対面で顔と顔をあわせてお話をしいろんなお話を聞きました。
言葉だけではなくてその表情にも皆さんの思いが伝わってああそうやなそうやなと相づちをつきます。
 
 私たちのご法義です。
南無阿弥陀仏のお念仏のお救いの法につながったなかでのお話です。
 ただ愚痴を言ったり意見をしたりとかで終わりません。
南無阿弥陀仏のおはたらきにお互いが救い取られていくご縁がこのお寺のご縁だといただきます。
 
 歳をとってきますと色々と思い通りにならないことも段々と増えてまいります。
そういうなかにあってこうして今日もお朝事から今日の一日を始めさせていただけます。
 一日一日を本当に大切に生き抜かさせていただけるご縁こそが
お念仏のご縁とまた仏教壮年会の総会懇親会で思ったことです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.17)
 
お仏壇のないお家が多くなりました
 お仏壇を置いてあるお部屋を仏間といいます。
床の間があるお家の一番の客間です。
 今は仏間といったお家の造りがなくなって
マンションやアパート住まいでいうと仏壇を申したいけれども置くところがないといわれます。
 
 現実問題として親のお家のお仏壇を継ぐ子どもや孫の家がそれぞれ違うということです。
今のお家は先祖伝来の家を継ぐということではなく第一番に生活に便利な家が求められます。
 仏間ということ自体最初から考えていません。
だから大きなお仏壇を子どものコンパクトな家に移すとなると置く場所がないという問題になるわけです。
 そのときに小さなお仏壇にしようと考えます。
もう一つこの際にお仏壇を始末しようと仏壇じまいということを聞くようになりました。
 
 墓じまいもよく聞きます。
ただ墓を処分してもお墓に入っているお遺骨は処分できません。
 新しくお墓を求めるということで改葬といいます。
お墓が遠方にあるから近くの納骨堂にお遺骨を移すということで田舎のお墓をしまうことはわかります。
ただ単に墓をしまって何もなくなってしまうということではないのです。
 
 何か私たちは当面のことで精いっぱいで何やら自分に都合のいい情報を聞くとすぐ飛びつきますが
私たちの先人が伝えてくださったお仏壇やお墓の心を訪ねていくことが大事ではないでしょうか。
 若いうちはそれこそ生きることで精いっぱい仕事で忙しい忙しいと精いっぱいかもしれませんが
そこにこそ先人の大きな知恵をいただくのです。
 仏縁に遇うということです。
仏さまのご縁に遇わせていただくなかに自分自身を振り返らせていただくことが
仏法を習うということだといただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.16)
 
私を待ってくれてる人がいる
 毎月一回大分市コンパルホールで法話会をしています。5年になります。
 昨日10時開始のお約束を少し遅れて「遅れてすみません」と部屋に入っていきました。
ほぼ同時に「お寺に電話してすみませんでした」と声がかかりました。
 道中何かあったのか心配になってお電話しましたということです。
 
 有り難かったです。
待ってくれてる人がいる、待ってくれてるところがあるということです。
 法話会に小さなお仏壇にご本尊の阿弥陀さまをお供します。
昨日は会の準備をいつも手伝ってくれる人がお休みでしたが
他の方が代わっててきぱきと準備してくださいました。
 これもまた有り難かったですね。
 
 ちょっと気になっていたことですが先月お休みの方が昨日もお休みだったのです。
どうしたのかなと思いつつ会が終わってお世話してくださる方がこう言ってくださいました。
 この前その人に会って今月も用事で行けないけれども
私によろしく伝えくださいとのことでした。
 私の心配がわかっていたのかなと思います。
皆さんの心配でもあったかもしれません。
 
 いつもの人が来ていないとどうかしたのかと思います。
たまたま会って今度また会いましょうと声をかけ合います。
 いいですね。
毎月日時を決めて同じところに集まる私たちです。
 待ってくれてる人がいる、待ってくれてるところに行けるというご縁です。
仏さまのご縁です。
 
 俱会一処の世界といただきます。
お経さまにお浄土を俱会一処の世界とお釈迦さまは説いてくださっています。
 阿弥陀さまのお浄土です。
このお浄土は私が待たれている世界なのです。
 私がこれまで行ったことはありませんが
お浄土は私の懐かしいところなのです。
 そこに待ってくれてる人がいるからです。
阿弥陀さまはもちろん私たちのご先祖有縁の仏さまが待ってくださっているのです。
 
 行ったことはないけれども仏さまが待ってくださっているお浄土に帰らせていただくのです。
その仏さまは私たちのお父さんでありお母さんでありおじいちゃんおばあちゃん隣のおじちゃんおばちゃんかもしれません。 
 今は南無阿弥陀仏の仏さまとなって待ってくださっているのです。
だから私たちは安心してお浄土参りができるのです。
 
 かといって早くお浄土に参りたいと思わないのはこの娑婆の生活が名残惜しいのです。
名残惜しいですがいつかは必ずこの命を終えていかなければなりません。
 「名残惜しく思えども娑婆の縁つきて力なくして終わるときに彼の土には参るべきなり」と
歎異抄の御文をいただきます。
 阿弥陀さまの大きな大きな南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
今日もこうしてお朝事のご縁俱会一処のご縁をいただいたことを本当に有り難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.15)
 
思いを伝える
 今日はバレンタインデイでチョコレートをおくって愛の告白するといいます。
私が中学生の頃にはもうあったようなことで今や日本の歳時記になっています。
 
 人に気持ちを伝えるということですが
面と向かって相手に言えない気持ちをチョコレートという物に託して伝えるということですね。
 
 今はスマホで日常再々に用事を伝えることができますが
その昔は手紙でした。
 愛の告白はラブレターです。
必死の思いで投函し祈るように返事を待って郵便ポストを何度ものぞいたりと
何とも言えない淡い思いを伝えるというのは不安と期待が入り混じったものです。
 
 私たちの仏法も言葉によって伝えてこられました。
こうしてお朝事でお正信偈さまのお勤めをし御文章さまを拝読させていただきます。
 親鸞さまが蓮如さまが言葉をもって私たちに阿弥陀さまのお心を伝えてくださってあるということです。
どうか南無阿弥陀仏のみ教えに遇ってお念仏申す身になってほしいというお心を
お手紙にして毎朝こうして届けてくださってあるのです。
 
 南無阿弥陀仏ともうすでに私のところに届けられた阿弥陀さまの願い親鸞さま蓮如さまの思いが
この私の口に声となってナンマンダブツと出てくださるのです。
 
 バレンタインデイのご縁にお念仏を申すなかに
今日一日も大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちにつながりあって生かされて生きることの有難さを思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.14)
 
後生の一大事の解決こそ
 今日の御文章さまに後生という言葉が何度も出てきました。
仏道を習うのは後生の一大事の解決にあるといわれます。
 親鸞聖人は生死いずべきを道を求めて仏法に帰依しました。
 
 生死の迷いといいます。
仏法を聞かせていただくと
私たちはこれまで何度も何度も生まれては死に生まれて死にと迷いの境涯を繰り返してきたというのです。
 そしてこのたびは人と生まれて今仏法に遇うことができました。
その仏法に生死いずべき道を聞かせていただくのです。
 
 生死の迷いを超えて悟りに至る仏道をたずねていくのです。
では今生で悟りの仏に成れるのかというと
この身をもっている限りは迷いの生死を生きていかねばなりません。
 
 親鸞さまはこの身を煩悩具足の凡夫と仏さまは見てくださってあるといただかれました。
欲の心怒りの心愚かな心をもちあわせた私なのだとの仏さまの仰せです。
 では私たちは仏に成れないのかというと
煩悩具足のわが身を目当てに阿弥陀さまのご本願は起こされたといわれるのです。
 阿弥陀さまの方でもうすでに南無阿弥陀仏の仏道を開いてくださってあると聞かせていただきます。
阿弥陀さまの本願他力のお念仏の道です。
 
 このお念仏の道以外に私たち凡夫が救われていく道はないといわれます。
阿弥陀さまがナンマンダブツとお念仏申して来いよと喚んでくださるのですから
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせてお念仏申して生死いずべき道をたずねていけばいいのです。
 そしてこの命いつか必ず終わりますがそのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただくのです。
私たちの後生は阿弥陀さまのお浄土ですが
もう今ここにお浄土から南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいているのです。
 
 後生の一大事の解決は今生の一大事の解決です。
今生今を生きる私たちです。
 お念仏を申して今日一日もお浄土への人生を生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2020.2.13)
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