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お念仏を申す生活法話

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秋のお彼岸の入りです

2018-09-20
 今日は秋のお彼岸の入りです。
23日のお中日を挟んで前後一週間をお彼岸といいます。
 
 朝があっという間に暗くなりました。
今朝6時に梵鐘をうって気をつけて見ると鐘楼の付近に彼岸花が芽を出しています。
昨日は6時半の喚鐘をうつとき向かいの東の空を見ると庫裡と門徒台所の屋根が重なる中央住友の煙突の左側を
朝日が昇って眩しいぐらいでした。今日は曇ってお日さまは見えませんが、そういう時節になりました。
 
 彼岸というのは彼の岸、仏さまのおさとりの世界です。
私たちの彼岸は阿弥陀さまのお浄土です。お彼岸にお浄土を思います。
 お墓参りをする人、納骨堂にお参りする人がぼちぼちいらっしゃいます。
先に往かれた方に会いに行くんですね。
先に往かれた方はこの目で見える姿はお遺骨となっていますが
今は阿弥陀さまのお浄土の仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらき一つに
私たちのところに還って来てると聞かせていただくのが浄土真宗の仏教です。
 
 死んだらお終いではなくて南無阿弥陀仏のいのちとなって永遠に私たちとつながってあるということです。
大きな大きな南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに私たちは生かされてあるのです。
 何か私が私がと一人で頑張って生きているような私たちの日常ですが
その私が私がという私を根底から根っこから支えてくださる大きないのちの仏さまを南無阿弥陀仏といただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.20)

夢を見ました

2018-09-19
 朝方夢を見ました。
ある知らない所に行って非常に困った事態が起こった、その時に偶然若い方と出会って不安ななかに話をしていると
その方がお寺の話をしだしたんです。
お寺のご院家さん坊守さんと言い、子どもの頃お寺の水曜学校に通っていたという話です。
 はっと思って「あなた大分の方、ひょっとして三佐、円光寺」と聞いたら
その方がびっくりして「えっ何でわかるんですか」と言い返されました。
 その時に嬉しいというか、その人の顔も名前も覚えていないんですけれども、不安ななかに安心して夢が醒めました。
 
 お寺は誰もが安心できるみんなの居場所といただきます。
安心できるおはたらきがあるというのがお寺の力なのです。
 阿弥陀さまの本願力、必ず救うまかせよのおはたらきです。
 
 本願念仏のおはたらきが満ち満ちているのが浄土真宗のお寺なんです。
但しこのお寺もただの風景になってしまったらその力おはたらきを感じる思うこともできません。
 
 その人人でいうとお寺の門徒といわれる方でも一生涯仏さまのご縁に遇うことは本当に難しいということです。
お寺の力というのはお寺に住まいする住職坊守だけではありません。ご門徒皆さんの力なんです。
その力が本当に目に見えて発揮できる発揮されるというのも仏さまのご縁なんです。
 
 常日頃からのご縁です。このお朝事のご縁です。
人数でいったら少ないですが、こうしたお朝事のご縁を日々つとめていくなかに水曜学校をしていくなかに
人人がそのことを思い、円光寺というお寺の力はたらきとなって発揮されるご縁につながるのです。
 
 眠りのなかに見る夢ですが、この夢は夢見る夢でもあります。
誰もが安心できるみんなのお寺になっていきたいと夢見ます。
 阿弥陀さまの本願力、必ず救うまかせよの大きな大きな南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
今日のこのご縁もいただけたということ、そのこと一つ有難いなと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.19)

樹木希林さん

2018-09-18
 俳優の樹木希林さんが亡くなって新聞テレビ等でその人となりが報道されています。
75歳ということですが、若い時分からまずテレビで、演じる役は30歳も40歳も年上のおばあちゃん役ということで
独特なキャラクターと共にそのイメージがずっと残っています。
 
 最近は映画に多く出演し実年齢なりの役柄で存在感を放っていました。
又テレビのバラエティ番組によく出演されていました。
 60歳を過ぎて病気にあわれ左目を失明、乳がんになって全摘手術を受け4年前には全身がんを公表されました。
 
 俳優という夢を与える仕事柄、私生活を公表しない俳優さんが多いのですが、樹木さんは違いました。
私生活を明かすなかで老いに向き合い病に向き合い死に向き合う姿をメッセージとともに私たちに伝えてくださいました。   
 こんなことを言っている私は樹木さんに会ったこともないしその人となりに日々接しているわけではありませんが
これがテレビの力ですね。テレビを通じて全国の人人にいのちの大切さと教えてくださったような気がします。
 
 「生も日常、死も日常」ということを言っていました。
私たちが生きているこの日常です。
朝起きて食事をし職場に行って働き家に帰って食事をし一日を終えるというそれぞれの日常です。生の日常です。
ところが死も日常というんです。
 
 生死一如という仏教の極意、基本的な教えです。
仏教のものの見方は生と死を分けて見ません。
生死を分別すると私たちは死を遠ざけ生きることばかりにとらわれはからってしまいます。
 ところがありのままのいのちということでいいますと、生死のいのちなのです。
今生きている私もいつどのように死を迎えるかわかりません。次の瞬間かもしれません。
今すぐにでも死の縁無量なのです。まさに生きるということは死ぬことであるという教えです。
 
 インタビュアーの方が「がんになって大変じゃないんですか」と尋ねたとき
「覚悟を決めたらそんなに大変なことじゃないよ」とこたえていました。
 逆に病気になることによって見えてくることがあるとも言ってました。
がんになってよかったとまで言いましたね。
 これは一人一人の思いですから、そのことを人に押し付けることではありません。
人それぞれに人生いろいろあるけれども、それこそそれなりに生きてそれなりに死んでいくんでしょうねと。
 
 仏教浄土真宗のみ教えに聞かせていただきますと、死んだらお終いではない、人の命は終えていきますが
そのままお浄土の仏さまのいのちと成って私たちにまた大切なことを教えてくださるのです。
 
 樹木さんは死という人生の最終章を演じ私たちにいのちのあり方を教えてくださったと仏さまの教えに重ねて思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.18)

家族の形態が変わるなかでお仏壇はお墓はこれからどうなるのか?

2018-09-17
 家族の形態が大家族から核家族になって大分経ち今は当たり前になっています。
おじいちゃんおばあちゃんの家、お父さんお母さんの家、子どもの家、孫の家と
それぞれの世代で住む家が違ってきています。
 近くに子どもがいても子どもの一家は親とは別の家に住んで別々の生活をしているということです。
毎日の食事が違います。近くにいてもずっと会わないこともしばしばです。
 
 そして近年増えてきたのが二つの家族が一つの家に同居するという家族の形態です。
家の玄関に二つの表札が並んであります。夫婦がいてそれぞれの親と一緒に暮らす形です。
 
 そうしたなかで先祖伝来のお仏壇が一つの家に二つあるところが増えてきました。
このお仏壇もいつかは一つになりますが、どんなかたちで誰があとをみることになるのでしょうか。
 
 核家族の場合、母屋といわれる家に次の世代が帰ってきたらいいのでしょうが
生活の拠点がそれぞれの家になってくるとそうともいかず、親の家のお仏壇をそのまま子どもの家に移すことも難しく
お仏壇が小さくなったりお仏壇がなくなったりする問題がでてきます。
 
 このことはお寺にとってもこれからの大きな問題です。
二つのお仏壇が同居するというなかで宗教が違うという問題も起こってきます。これも問題です。
 
 お仏壇をそしてお墓をこれから誰がみるのか、私たちが元気なうちに考えておく大切なことになってまいりました。
60歳を過ぎて70歳前後となりいよいよそうした問題に直面する年頃になりました。
そんなことは今あれこれ考えてもどうしようもない、その時がきたら子どもが考えたらいいでは済まされない大問題です。
 
 ここはお寺の出番でもあることです。
宗教仏教浄土真宗のことを基本から勉強してきた人ってそんなにいません。
なまじっかな知識であったり、何かあったときに考えればいいぐらいなものとしてみてきたことだと思います。
 いざその時になってお寺にお参りして聞くということもはばかられ
仏教書を読んだり講演会に行ったりしても、その人人で見解が違うということもあってかえって迷うことにもなります。
 
 直接ご縁のお寺にお参りしてお坊さんに聞いてくれればと思いますが、一般的にお寺とは距離を置きたい存在のようです。
ともあれ人と人とのご縁つながりのなかで仏教も伝わってきました。
 お寺という仏さまのご縁の場で人と人お互いに顔と顔を合わせて
ご一緒に仏さまのみ教えに聞かせていただくことです。
 お家お家でご相談の内容も違ってきますが、中心は一つです。
その人人に向き合って丁寧に相談させていただけるお寺になっていきたい
いやなっていかなければこれからこのお寺自体がなくなってしまうような危機感も殊更最近思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.17)

我がいのちのあり方を聞かせていただきます

2018-09-16
 昨日は円光寺で大海組の連続研修会の開講式がありました。
昨日を入れて毎月1回13回連続して同じメンバーが大海組内の各お寺さんを回って研修するご縁です。
仏教浄土真宗のお勉強をします。
 
 この連続研修会の特徴は話し合い法座といって班に分かれて10人ほどの方が毎回各テーマについて話し合います。
お寺のご法座といいますと、お坊さんがいてご門徒有縁の方がいて
お坊さんが一方的に話すご法話をご門徒さんはひたすら聞くということですが
さまざまな問いについて話し合いをもってその後まとめのご法話をいただきます。
 
 昨日は初回ということでどんなきっかけ動機でこの連続研修会に参加されましたかというテーマでした。
ご院家さん坊守さんから言われて参加したという方もいれば
仏教のことも浄土真宗のことも本当に知らないままにお寺の役員になって
どう挨拶したらいいのか、また門徒の方から質問されてどう答えたらいいのか
そうした仏事のたしなみとか仏教浄土真宗の基本的なことについてお勉強をしたいという方が多くいました。
 
 そのなかで私の班ではすごい問題意識をもって参加された方が数人おられてお話をされ少しびっくりしました。
私たちと同じ世代、60歳代70歳前後の方々です。
 親を亡くすんですね。連れ合いの方ともお別れするなかで、ある方はこうおっしゃいました。
 
 子どもが就職結婚して親としての務めは終わったのかなと思うなかで
ふっとこの人生あと残りの時間をどう生きるのかを考えるようになったいいます。
 そういうなかでお父さんお母さんに続いてお別れをしたといいます。
お父さんは治ることが難しい病気で枯れるように亡くなったと
そしてお母さんは寝たっきりになって医者から「胃ろうしないと一週間内に亡くなります」と言われ
胃ろう処置をしてどんなご様子で生きられたかはわかりませんが、3年命が長らえたといいます。
 亡くなった時にお母さんを抱えたら重かったというんです。お父さんの時は軽かったといいます。
お父さんは枯れるように亡くなってお母さんは胃ろうです。
 その時に本当にこれでよかったのかなと思ったそうです。
 
 一方で他の方のお話です。胃ろうをされた身内の方のお話で
病院に行って意識がなくても姿があるということでよかったというお話でした。
 
 これってすごい問題ですよ。他人事ではなく自分自身が胃ろうとか終末期の医療にあうということです。
そのことを仏さまのみ教えに聞きたいというんです。
 いのちのあり方です。わが命のあり方です。
私たちの命は死んだらお終いではない、仏さまに成るいのちを生きているということを
私のこととして聞かせていただくこともこの連続研修会の大きなテーマなのです。
 
 ある女性はこう言いました。まだ死のことは考えたくないと。いやそれも本当のことだと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.9.16)
円光寺
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