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お念仏を申す生活法話

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阿弥陀さまは言葉になった仏さまです

 失言を繰り返してきた大臣が辞任されました。
今の政権の一翼を担う有力大臣、この方も失言癖が多いのですが
この方が失言を指摘されるたびに決まって「ある部分だけ切り取るのではなく、前後の文章をよく読んでください」と
逆に質問した記者に全体の文章をよく読んだら真意がわかるはずだと反論します。
 
 政治家は言葉が命といいます。
言葉でもって自らの政治ビジョンを語りより多くの人に伝え賛同を得ていくということで
その発言にはとても大きな意味と責任があります。
 たとえある部分だけ切り取られたとしてもその発言は嘘かといったら本当です。
ただ自分の思いが伝わらないというもどかしさは確かにあると思います。
 
 宗教も言葉が命です。
キリスト教は聖書、イスラム教はコーランそして仏教は経典と
言葉によって教えは説かれ伝えられてきたのです。
 
 なかでも私たちの仏教浄土真宗は言葉になってくださった阿弥陀さまの教えです。
その言葉が南無阿弥陀仏なのです。
 
 今日の御文章さまのなかにも「南無阿弥陀仏の六つの字のいわれをよく聞き開きぬれば」とありました。
南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀さまのお心おはたらきを聞くことが肝要だというのです。
 聞其名号、其の名号を聞きて信心歓喜すといいます。
信心喜ぶ身にさせていただくということです。
 
 「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のお心をそのまま聞けよとの仰せですが、これが中々難しい。
聞くなかに次から次と私のはからい疑い心が入ってきます。
 だからこそ聞かせていただく、お聴聞一つだよとお念仏の先人が私たちに勧めてくださるのです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すその声は阿弥陀さまのお喚び声だと聞かせていただくのです。
阿弥陀さまはもう既に私の声となって私のところに来てくださって「必ず救うまかせよ」と今ここにおはたらきなのです。
 阿弥陀さまは言葉になった仏さまです。
南無阿弥陀仏となっていつでもどこでも私と共に生きてくださる仏さまです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.12)

最期に「ありがとうございました」とお礼を申して見送りたいです

 著名人が亡くなると、葬儀は近親者で行う行ったということが多くなりました。
それぞれ事情があることだと思いますが、何か寂しい気がします。
 
 昨日も一世を風靡した有名な芸能人が亡くなったという報道で
テレビのキャスターが「大変お世話になったからお礼が言いたいけれども今は殆ど密葬だからね」とポツリ言われました。
 密葬です。密かに葬儀を済ませる、今でいう家族葬という葬儀のあり方です。
家族身内だけで最期のお見送りをするということですが
これまでの人生を自分一人で家族だけで生きてきたわけではないと思います。
 そこには隣近所の方、学校の同級生、職場の同僚など数多くの人とのつながりのなかで生きてこられたと思うのです。
 
 死をとりわけ特別なものにしてしまっているようなところがないでしょうか。
生が日常なら死も日常です。生きているから死ぬのです。
私たちが生きているということはいつか必ず命を終えていかなければならないということです。
 
 この命終えていく時に「お世話になりました。有難うございました。ご苦労さまでした」と
送る方も送られる方もお互いに声をかけ合うことができるのが葬儀のご縁です。
 
 お通夜の席でお通夜というのは夜伽(よとぎ)というご縁ですというお話をします。
夜伽とは夜を通してお話をするということです。
 先に逝かれた方はもうすでに体は硬く冷たく声をかけても懐かしい声が返ってくるわけではありませんが
姿形はそのままです。姿形そのまんまの大切なお方と最後の夜を過ごすのです。
これまでの人生を振り返りいろんなお話をしてお礼をします。
 
 そして明けて翌日は葬送です。送るんです。
送るところ送られるところがお互いにわかっているから送れるのです。
 阿弥陀さまが私たちを必ず救うと決めて用意をしてくださっているお浄土です。
 
 葬儀のご縁に阿弥陀さまのお浄土があることを聞かせていただくのです。
先に往く人もお浄土ならば後に残る人も同じお浄土に生まれて一処でまた再会できると聞かせていただきます。
 何時だって聞くことができることのようですが、生きることに忙しく精いっぱいの私たちに
先に往かれた方が命がけのお説法で聞かせていただけるのです。
 
 家族だけでなく多くの有縁の方々に仏さまのみ教えをお伝えする大きなご縁をつくってくださる仏さまです。
葬儀のご縁は仏さまのご縁です。そのままいただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.11)

「花びらは散っても 花は散らない」今年の桜も見納めです

 昨夜からの大きな雨で今年の桜もいよいよ見納めということです。
お寺の境内の桜はすっかり葉桜になりました。
 
 満開の桜もみんな散っていきます。そのまま大地に散って土にかえっていきます。
散って帰っていくところがあるということです。
 
 桜の花に寄せて先人は
「散る桜 残る桜も 散る桜」「花びらは散っても 花は散らない」など
この世の無常を思いはかない命を重ねて思う歌をたくさん遺してくれています。
 
 今年の花びらは去年これまでの花びらとは違います。
来年はまた違う花びらをつけて私たちを楽しませてくれるでしょう。
 それぞれの花びらそれぞれの命を精いっぱい生きて散っていくのです。
 
 私たちの命もそうです。
生まれた以上はいつかは必ずこの命を終えていかねばなりません。
 散っていくのです。
 
 そこのところだけ見たら悲しい本当に虚しいということですが
そんな私を見て取って私たちが散って行くところをちゃんと用意をしてくださってあるのです。
 阿弥陀さまのお浄土です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に確かに確かに生まれ往くのです。
死ぬのではなく生まれ往くのです。
 花のいのちに生まれて往くのです。
 
 「花びらは散っても 花は散らない」の後に「形は滅びても  人は死なぬ」と続きます。(金子大栄師)
花のいのちはこれからもずっと続いていくのです。これまでも続いてきたのです。
 
 南無阿弥陀仏のいのちとなってこれからもずっとずっと生きて往くのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちはこのたびは人間の命を生きています。
私という一片の花びらの命です。
 
 この人間に生まれてきたのは仏さまのみ教えを聞くためだよと説かれます。
仏法を聞くためにこの人間に生まれてきたというのです。
 
 阿弥陀さまの本願念仏のみ教えに遇わせていただきお念仏を申すなかに
私たちはこの命を輝かせて生きていけるのです。
 いつどんなかたちでこの命終えるかわかりませんが
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなかにあって
これからもずっとずっと生かされて生きて往くいのちと有難く聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.10)

お念仏申して歳をとってまいりましょう

 焼酎やウイスキーなどのお酒は熟成ものが美味しいと重宝されます。
果物でも熟す頃をみて収穫しますし、肉も少しねかせて熟成するとまた格別な味が楽しめるといわれます。
 熟すと美味しいということですが、ただ時間をかけたらいいものでもありません。
熟し過ぎると腐ってしまいます。
 
 私たちも歳を重ねていけばいくほど熟成して円熟味が出てくるといいですね。
ただこれが中々うまくいかないのです。
 人間歳をとったら丸くなるのではなく何か逆に角がどんどんとがってくる感じさえあります。
 
 人から見たらいいおじいちゃんいいおばあちゃんという見方もあるかもしれませんが
我が身我が心を仏法に聞かせていただく、仏さまの鏡に写させていただくととんでもない私がいるということです。
 阿弥陀さまはこうした私を知らせたうえで決して見捨てることがない見放すことがない仏さまになってくださったのです。いつでもどこでもどんな状況にあっても「あなたと共にいるよ」といつも私に寄り添いご一緒してくださるのです。
 
 放っておけないという親心です。
放っておいたら何をしでかすかわからない私がいるということです。
 どんなに世間から人から鬼のようなという見方をされても
「私は決してあなた一人を見捨てることなく護っていく」とおはたらきくださってあるのです。
 
 私が私がと自ら円熟しようと思ったらそれはかないません。私の思いあがりです。
円熟しようと思えば思うほど欲の心が膨らみどこかに棘がでてきます、角がたちます。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせなさいと阿弥陀さまはお喚びかけです。
阿弥陀さまの御仏前に身を置きましょう。
 ただ日々の生活のなかでいつも御仏前に居るわけにはいきません。
だからこそ南無阿弥陀仏と阿弥陀さまが付いてきてくれるのです。
 
 今日の日々の生活です。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すなかに日暮しをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.9)

僧衣をつけて選挙に行きます

 昨日は花まつりの会が賑々しくできました。
たくさんの方にお参りいただき2回目のコンサートもできました。
ご門徒皆さんが思いを寄せてご一緒に仏さまのご縁に遇わせていただけることを本当に頼もしく有難く思います。
 
 春四月の日曜日です。
昨日は各地でいろんな行事が催され天気にも恵まれてお花見を楽しまれる方も多かったようです。
花まつりの後片付けをして私もお花見に出かけましたが、その前に選挙に行きました。
 
 いつもの選挙でしたら日曜日のご法事などお参りの前に選挙に行きます。僧衣での投票です。
選挙はこの国この県この市に生きる私たちの民意の最大の行使の場でありとても大事な事柄です。
 選挙ですから選ぶのです。
身近な選挙になれば日頃の人間関係が特に影響しますが、決して誰でもいいということではありません。
そこで選ぶ基準を改めて確認することにもなります。国政に対する視点であり自ら生きる立ち位置です。
 敢えて僧衣をつけて選挙に行くのは私の生きる原点を見直すということでもあります。
 
 選挙は私たちの民意を議員さんに託すというこれほど大事なことはないといっても過言ではありません。
今朝の新聞一面の大見出しに「投票率50%を割る」とありました。大分市は44%といいます。
二人のうち一人は投票に行っていないということです。
若い人がとすぐ言いますが、いい年輩の方も選挙に行かない方が多いのではないでしょうか。
 選挙に行かない人の大方の意見は「誰がなっても変わらないから」ということです。
そうでしょうか。逆に誰がなってもいいのでしょうか。
 
 お花見に行った平和公園はすごい人盛りでした。
町の繁華街を歩いているような感じでしたし、バーベキューをしたりして大勢の方がお花見を楽しんでいました。
この中の何人が選挙に行ったのか行かなかったのか、そんなことをちょっと思いました。
 
 仏教は縁起の教えといいます。ご縁つながりです。
私たちはあらゆるもののいのちのつながりのなかに生かされ生きているという根本の教えです。
 この世の中で関係ないものは一つもないという教えです。
今までに会ったこともない人もどの国の人ともみんなつながっているというのです。
善くも悪くもお互いに関係し合って生きている私たちお互いなのです。
みんないのちつながって私たちのこの社会がある、私の日々の生活があるということです。
 
 誰がなっても変わらない同じではありません。
私にできることといったら選挙に行くことです。
 選挙もまた仏さまのご縁です。あらためて仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
仏さまのお心にかなうような生き方ができているのか自らを振り返りつつ
僧衣をつけて選挙に行きます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.8)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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