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お念仏を申す生活法話

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傾聴ということ(2011年アーカイブ)

2022-06-18
 東日本大震災の復興支援で
いろんなボランティア活動が行われています。

 そのなかで傾聴ボランティアということが
注目されています。

 傾聴ボランティアは相手の気持ちに寄り添って
話を受容共感しながら聴く活動のことで
大震災で家族や大切な人を亡くしたり
家を失ったりした人の苦悩に寄り添い
思いを聴くなかに共に生きることで
新聞テレビ等でも識者の声として
悲しみに寄り添う共感することの大切さが
よく言われています。

 あなたと私が共に生きる日常生活の中でも
あなたの気持ちに私が寄り添う共感するといって
本当に難しいですね。
 難しいというのは
そこに私がという思いはからいがはたらくからです。

 私だったらこう思う考える行動すると
この私がという思いが強ければ強いほど
その人のお話を聞くといって
どうしてもそこに私の思いや意見が入ってきます。

 それが相手の方にとっては非常に傍迷惑なことで
何か意見を押し付けられるような嫌な思いにさせられる
説教される強制されるといったことにもなるといいます。

 説教といって本来は
お釈迦さまが説かれた仏教の教えを説き明かすことで
自分の思いを話すことではないのですが
お説教というとお坊さんが一方通行に
ご話することが多かったように思います。

 ただご法話を聞くだけで
自分たちの思い意見は聴いてもらえないと
話し合い法座というご法座が生まれました。

 仏さまのみ教えを共に聞いて
分からないことは聞きましょう
皆さんで話し合いましょうという取り組みです。

 話し合い法座が始まって50年になりますが
当初の思いとは裏腹に
今はまた昔ながらのお説教に返っているような感じです。

 話し合い法座が難しいというのは
ご門徒衆の中に袈裟衣を着けたお坊さんが入りますと
仏法について中々思うようなことが言えないことで
どこかにホンネを隠したタテマエの話し合いに
なってしまうということです。

 あなたと私が苦しみ悩みを共感することも
理想的なことですが難しいです。
 何でも思っていることをお話ください
苦しいこと悲しいこと悩んでらっしゃることを
お話してくださいと言いますが
苦しみ悩みが深ければ深いほど
声に出して人に話すことはなお難しいことです。

 お寺がそうした苦しみ悩みを抱えた方々の
居場所になっていきたいと思います。

 阿弥陀さまのお姿をご覧いただくと
阿弥陀さまの胸ははだけるように広く開いています。
 どうぞあなたの悲しみの涙を
ここにいっぱい流しておくれというお姿お心です。
 悲しい時には涙が枯れるまで泣いていいんですよ
私がいつも一緒だから大丈夫という大きなおはたらき
阿弥陀さまの大悲のおすがたです。

 阿弥陀さまは大悲の中からスーッと立ちあがって
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお喚び声になって
私のところに来てくださっているのです。

 阿弥陀さまは私に寄り添い私の苦しみ悩みに共感して
「あなたの命そのまま引き受けた必ず救う」と
おはたらきの仏さまになってくださったことを
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
聞かせていただきます。 

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.6.18)


<スナック円光寺>にようこそ!

2022-06-17
 今朝ちょっと早く目が覚めて新聞を取りました。
合同新聞の一面に「スナックを学術研究」という
大きな見出しを見て記事を読みました。

 スナックはカウンターのある小さな店舗で
ママが水割りをつくりボトルを入れた者同士で
歓談する場所と書いてありました。

 私が大分に戻って来て友だちに初めて連れて行かれた
これまで未体験の異空間がスナックでした。
 お気に入りの店ができて
お酒を飲んで歌って色んな人と出会い話した
楽しい世界でした。

 昼の仕事の世界とは異なる夜の社交場です。
飲みに行ってみんなとワイワイできる所がある
楽しみです。

 歳を重ねて若い頃に通ったスナックが閉店していきますが
また次に通うスナックが新しくできてということです。

 スナックには常連客がいて
その常連客に連れて来られたお客が次の常連客になるという
うまい具合に常連客の人のリレーがあって
息の長いスナックは今もしっかり残っています。

 ママさんは変わりませんが
私と同じように歳を重ねていきます。
 私とほぼ同年輩で話す話題もカラオケの歌も共通点が多く
馴染みのスナックは安心できて心地よい所です。

 スナック文化と言っていいほど
スナックの話には奥が深いものがありますが
お寺のご法座に重ねて思います。

 このお朝事のご法座です。
皆さんは常連のお参り同行ですが
これまでの常連のお方に勧められるとか
その方の後ろ姿を見て
皆さんが今ここに座ってらっしゃるのではありませんか。

 皆さん常連のお同行も順繰り順繰りならば
住職のこの私もまた順繰りで
前住から私にそして新院へと変わって行きます。

 ここでスナックと違うのは
ママさんと呼ばれる方の存在です。
 阿弥陀如来さまです。
ママさんと違って阿弥陀さまは歳をとらないで
いつもそのまま同じお姿で
私たちを迎えてくれます。

 いつでもどこでも私のことを思うてくださり
「最近来ないけど、どうしてるのかな?」と
心配してくれているのです。

 阿弥陀さまの思い一つに
このお念仏のご法座が私たちに開かれているのです。
 だからお参りできるのです。
私がお参りできる所を用意して
待ってくださっているのです。

 私がこの命終わっても
このお寺のご法座に閉店はありません。
 お念仏の先人が順繰り順繰り引き継いで
このたびご縁をいただいたこの私です。

 今日もこうしてご縁をいただいて
ようこそお念仏のスナック円光寺に
お参りなさいました。
 お念仏を活力に
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.17)


百か日のご縁で

2022-06-16
 昨日百か日のお勤めを本堂でしました。

 朝早くから次々に車がお寺の境内に入ってきて
駐車場に車が5台とまりました。
 お参りされた方は6人です。
一人は免許を持っていませんから
皆さんそれぞれが自分の車でみえたということです。

 60歳前の方のご縁で
お母さんに連れ合いの方子どもさんのご家族ですが
それぞれお家が違う生活が違うということで
皆さんが百か日のご縁でお寺にお参りされました。

 昨日は平日で仕事をもっている方は
お休みするなど都合をつけて
この時間に円光寺の本堂御仏前に集まったのです。

 仏さまのご縁はいただきものといいます。
かといって私がじっとしていてできるご縁ではありません。
 私が都合をつけてこの身を御仏前にはこんだのですから
私が思い私がしたことです。

 ただこの御仏前に座ってみると
尊い仏さまのご縁といただけるのが
仏法に遇うことの有難さです。

 仏法を聞いてくれよお念仏申す身になってくれよと
仏さまのご縁をいただいて
この身を御仏前に座らせてもらったのです。

 阿弥陀さまの本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 その仏さまのご縁をまさに命がけで
この私に開いてくださった仏さまと仰いでいける尊さです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
この身は今人間の命を生きて
いつか必ず命終えていきますが
死んだらお終いではなくて
大きないのちのつながりのなかに
これからもずっと生かされて生きることができると
お念仏のご法義を有難く聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.16)


人生の締め切り

2022-06-15
 朝起きて一番にポストに新聞を取りに行くのが
私のいつもの朝の日課です。
 新聞は毎朝3時半頃にはバイクの音と共に
配達されていますので
早く目が覚めた時など早速新聞に目を通せる
楽しみがあって本当に有難いです。

 新聞は毎日発行されます。
記事を取材して文章にして印刷して販売店に届けて
各お家に配るという多くの人が係る一連の作業です。
 それも新聞というぐらいですから
最新のニュースが新聞の命です。

 なるべくギリギリまで待ってということで
締め切りの時間との戦いが日々続きます。

 雑誌社に勤務していた方が
がん告知余命宣告を受けて出版された本に
人生の締め切りと書かれていました。

 週刊誌や月刊誌も締め切りがあって
締め切り前はてんやわんやの事態で
もう大変という話です。
 ちょっと想像しただけでも
私だったらストレスがたまってパニックになるようなことで
「そんなに慌ててバタバタしないように
早くから準備段取りしていたらいいのに」と言われますが
私のことでいうとこれが難しいのです。

 何の仕事でもいつまでにどうこうと
締め切りがあることは分かっていますが
「まだまだ時間がある」などと思っては
結局は締め切り間際になってバタバタ慌てるのです。

 それでも周囲の協力をいただいて
何とかかんとかやってきたのです。
 満足できないことがあっても
その時は「この次はこうしよう」と反省します。

 ところが人生の締め切りは待ったなしです。
反省してこの次はこうしようと思っても
この次があるかと言ったらないのです。
まさに待ったなしなのです。

 余命宣告された人は
人生の締め切りを決められたわけですが
皆さんはどうですか。
 私のことでいったら
まだ人生の締め切りは決められていませんが
その締め切りは必ずあって
それもある日突然来るということです。
 無常の命を生きているということです。
人生無常諸行無常の理です。

 まさに日々毎日が人生の締め切りなのです。
人生を仕舞うということ始末をつけるといいます。

 仏法にこの人生の始末を
聞かせていただきます。
 人間に生まれましたね。
生きてきましたね。
色んなことがありましたね。
 どこまで生きますか。
死んだらどうなりますかね。
 人生の始末がついていますか。

 私たちの阿弥陀さまは
この命をそのまんましっかり受け止めてくださる
仏さまに成ってくださったのです。
 生死の迷いの中に沈み思い悩む私を
そのまま受け止めてくださって
「大丈夫だよ」といつでもどこでも
南無阿弥陀仏と私を喚んでくださっているのです。

「どんなことがあってもあなたを捨てることはないよ
私がいるよ大丈夫だよ」と
生老病死の命を共に生きてくださり
命終わる時に「そのまま連れていくぞ」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
お浄土に生まれさせ仏に成らせてくださるのです。

 わが名を称えてくれよ南無阿弥陀仏を聞いてくれよと
お立ちになって私を喚んでくださっているのです。

 人生の締め切りを考える齢になりました。
人生の始末はもうできたのかといって
自分に納得のいくようなことが
できる人っていないと思います。

 ただお念仏のみ教えに遇わせてもらって思うのは
この人生いろんなことがあったけれども
これからもいろんなことがあるだろうけれども
「大丈夫」と喚んでご一緒くださる
阿弥陀さまの大悲に抱かれて
「人間に生まれて仏法に遇えて
お念仏申す身にさせてもらって本当によかった」と
命終えていけることの有難さです。

 お念仏を申すなかに日々人生の締め切りと心して
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.15)




仏壇じまいの御礼のお勤めです

2022-06-14
 昨日は仏壇じまいと墓じまいのご縁をいただきました。
 お家を継ぐ方がいらっしゃらないということで
お仏壇もお墓も仕舞うということです。

 これからこうした事例が
多くなってくると思います。

 以前でしたら家を継ぐことが一大事でしたから
家に跡継ぎの子どもがいないと
養子を迎えるなどして家を存続してきたわけですが
今は家に子どもがいても
遠方に家を建て家庭を持って生活していて
古里の家に戻って家を継ぐことが難しく
お仏壇やお墓をそのままにしておけない事情もでてきます。

 お仏壇やお墓を仕舞うのに
「魂抜きをしてください」と
お勤めを頼まれます。

 魂を入れたり抜いたりするための
お勤めではありません。
御礼のお勤めです。

 昨日のご縁でいうと
今はそのお家には誰も住んでらっしゃいませんが
過日月参りに行きますと
おばあちゃんと長男夫婦がいらっしゃって
おばあちゃんが仏間の次の間に腰をかがめて手を合わせ
お父さんは私の後ろでご一緒にお勤めをし
お母さんは台所からお茶をお盆に持ってきてくださった
いつもの光景が思い出されます。

 お家の中心にご本尊の阿弥陀さまのお仏壇をご安置して
家族それぞれの日暮らしがあったということです。
 いろんなことがあった私たちの生活ぶりを
阿弥陀さまがいつもお立ちで見守ってくださり
家族が一堂に会して阿弥陀さまご先祖有縁の仏さま方に
御礼をさせていただいたことです。

 このたびのご縁でこのお家もお仏壇もお墓も
仕舞われるということですが
これからも仏さまに南無阿弥陀仏と御礼のお念仏を申して
日々日暮らしをさせていただきましょうと
ご法話お取り次ぎをさせていただきました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.14)


円光寺
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