浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
フォーム
 
阿弥陀さまのお救いはみんなの救いです
 「みんなの体操会」というチラシが目に留まりました。
みんなで体操をしましょうというお誘いです。
みんなという言葉に親しみを感じます。
 
 私たちの阿弥陀さまのお救いはみんなのお救いです。
今月のことば「ただ念仏ひとつで どんな人も 救われる」です。
 生きとし生けるすべてのものを分け隔てなく必ず救うそのまま救うという南無阿弥陀仏のおはたらきです。
 
 みんなと聞いて私のことです。
この私一人をこそ必ず救うとご本願をたてられ永い永い間ご修行されて
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
いつでもどこでも私のところに来てくださってあると聞かせていただきます。
 
 私一人のためのご本願のお救いと聞かせていただくことが肝要です。
みんなのと聞くと何か隣の人のこと他の人のことをいっているようで
自分には関係ないと聞くのではなく私のことと聞かせていただくのです。
 そこにみんなのお救いという阿弥陀さまの大きな大きなお心おはたらきにあって
何かほっとする心強いものを感じます。
 
 ただみんなといって、みんながしているからと多数派の代名詞になって
少数者を排除するような見方にもなってしまう言葉にもなりかねません。
 みんなが言っているからみんながしているからということに思いがいって
言っていることしていることの真実を問わない見方にもなってしまうからです。
 
 ハンセン病患者の家族救済判決の控訴を政府が断念したということです。
ハンセン病の患者さんはもとよりその家族までも
社会の差別と偏見にさらされ困難な生活を強いられたという重い事実です。
 
 私たち人間のものの見方の危うさです。
真実を知ろうともせずみんなという多数派のなかにあって少数者を傷つけているということです。
 
 仏さまのものの見方はどんな人もみんなです。
みんなそれぞれ顔が違うようにその生活ぶりは一人として同じものではありません。
それぞれの違いを超えて仏さまのお慈悲のお心おはたらきなのです。
 
 お念仏申し仏さまのお心を聞き自分中心のあり様を見つめ直し
みんながそれぞれの違いを認め合って共々に生きる社会でありたいと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.11)
 
今朝梵鐘が撞けませんでした
 昨日はお朝事をお休みして6時の梵鐘もお朝事の調声も坊守と新院が代わってしてくれたことですが
今日は鐘つきの時間を過ぎて結局梵鐘を撞くことができませんでした。
 
 いつもの時間に起きていつも朝の用意をしましたが、一つだけいつもと違うことをしたのです。
そのことで鐘を撞くタイミングを逸してしまったということです。
 
 朝の梵鐘は時報という時刻を告げる鐘ではありません。
でも聞く人にとっては6時の鐘なんでしょうね。
 今日は円光寺の鐘がならないなと思った方もいたのではないでしょうか。
聞き過ごしたのかなあと思った方もいらっしゃるのではないかと思います。
 
 日々の生活ということを思います。
私たちは有難いことにご本尊を中心にナンマンダブツとお念仏を申す日暮しさせていただいています。
 何かいつもと違うことをしてしまうようなことがあっても
右に行ったり左に行ったりと迷う私を阿弥陀さまはちゃんとご存知で
いつでもどこでも見てござる知ってござると
ナンマンダブツとお念仏となってご一緒してくださるのです。
その有難さ尊さをまた思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.10)
 
50回忌のご法事です
 昨日は日曜日でご法事が二件ありました。
たまたま二件とも50回忌のご法事でした。
 
 50回忌というのは昭和45年に往生された方のご法事です。
昭和45年です。皆さん私たちはどういう生活をしていましたかというお話になりました。
 
 この辺は区画整理で町並みが一変したというほど変わってしまいました。
昭和45年当時の町並みを思い出すのは難しいところがあります。
 そういうなかでお寺やお宮の存在の有難さを思います。
お寺やお宮は建物の造りは変っても在る場所は変っていません。
だからお寺やお宮を中心に我が家のことや周りの風景を思い出すことができるということではないでしょうか。
 
 いろんな話になりました。
牛を飼っていたとか馬に乗って学校から帰ったとかいう話まで飛び出しました。
当時は牛馬の力を借りて農作業や家事をしていたということです。
昭和45年よりずっと前の話のように思いますが、何か懐かしく楽しそうに話されていました。
 
 小さい頃に皆さんの記憶が鮮やかに戻るんですね。
こうした懐かしい思い出を語り後の人に伝えることもご法事のご縁だなと思います。
 ただ日々の生活は大変だったと思います。
まさに毎日が生きることで精いっぱいだったのではないでしょうか。
 そういうなかにあって家族で地域で人々がたすけ合いいろんなおかげに育まれて
今の私たちがあるということを有難く思うことができるのもご法事の営みだと思います。
 
 私たちは自分を中心に私が私がと生きることに精いっぱい自分のことで精いっぱいです。
これも本当のことです。
 そういう私たちをこれまでもあたたかく見守り
これからも色んなことがあるけれどもお家の阿弥陀さまを中心に
お念仏を申すなかに日暮しさせていただけることをまた有難く思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.7.8)
 
人生の最期をどこでどのように迎えますか
 昨夜Iさんの奥さんがご往生されて臨終勤行にお参りさせていただきました。
日曜日に病院からお家に帰って来られて4日目ということです。
 
 昨日は初七日のお勤めのお家があって私と同学年の方のご縁でした。
4月に病気が分かって最後は先生から余命一カ月と告知をされお家に帰って三日目だったといいます。
 
 病院や施設で亡くなる方が多いなかでお二人の方が続いてお家で臨終を迎えられたということです。
長く入院されて一向に回復の兆しが見えないなかで、早く家に帰りたいと家族に言うそうです。
 ただ家に帰っても病院にいるようなことは到底できないのですが、最期は家で迎えたいという思いなのでしょう。
 
 今は医療福祉体制が充実しており
主治医を中心に看護士や保健士など色んな専門分野の方がチームを組んで最期まで看取ってくださるといいます。  
 それで治る見込みはないのですが、心身の痛みを和らげ最期を懐かしいお家で迎えるというのです。
 
 昨日の臨終勤行は懐かしいお家の阿弥陀さまのご尊前でお勤めさせていただきました。
今は葬儀社でのお通夜お葬式が一般的になりましたが
お家での最後の夜です、ゆっくりご家族皆さんで過ごしてくださいと声をかけて臨終勤行のお勤めを終えました。
 
 他人の話ではなくて私の話です。
いつどういうかたちでこの命を終えていくのか分かりません。
私が決められることでもありません。
 ただこの命終える時が必ず来ることは確かなことです。
仏さまのみ教えを聞かせていただくことの有難さを思います。
 
 大切なお方とお別れしなければいけませんが
ナンマンダブツとお念仏申してお別れができ阿弥陀さまのお浄土に送ることができるのです。
 お浄土に生まれて大切なお方は南無阿弥陀仏の仏さまとなってこの世に私たちのところに還って来るというのです。
迷いの中にある私たちを必ず救うそのまま救うというおはたらき一つにです。
 
 そのまま聞かせていただきましょう。
大切な方とお別れする悲しいご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきましょう。
七日七日に始まるこれからのご縁を精いっぱいお勤めさせていただきましょう。
とお取り次ぎさせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.28)
 
子ども食堂が増えてきています
 子ども食堂が全国的に増えているという報道です。
3700余りあって去年から比べると1.6倍増えているといいます。
鶴崎にも子ども食堂があると聞きます。
 
 子ども食堂は親御さんが働いて一人で食事をするような孤食の子どもさん
また経済的に困窮している家庭の子どもさんを対象としたもので
無料または低価格で食事を提供する取り組みです。
 
 お寺の御講のお斎を思います。
円光寺では両彼岸と報恩講の年に3回御講をします。
御講に直る人に200円、お参りされない方は100円を出してもらって賄っています。
 
 最近御講のお参りがずっと減ってきました。
仕事をもっている方が増え時間的にも11時から3時までの長時間だったりその他色んな理由があると思います。
 
 私たちが小さい頃は近くでお葬式があると近所の子どもも一緒にお葬式のお斎になおっていました。
お腹をすかせた子どもたちが腹いっぱいご飯を食べていました。
御講の献立はずっと変わらずけんちん汁とご飯に和え物です。
 今の食卓に並ぶ食事に比べたら本当に粗末なものですが
みんなで一緒に腹いっぱい食べて本当においしかったです。
 
 あるお寺のお斎には門徒さんがビニール袋を持って来られるそうです。
お給仕する方がご飯を山盛りついでその袋にご飯を入れて家に持ち帰るのです。
 お仏飯のおすそ分けです。
お寺にお参りできない家族の方も一緒にお仏飯をいただくのです。
 
 お互いに助け合い支え合う心意気が御講だったということです。
そして今は子ども食堂ということで地域の心ある方が手をあげてボランティアでお手伝いしています。
 
 お寺でも子ども食堂をしているところがあります。
お寺の御講のようにどこのお寺でも子ども食堂をすればということですが
何をするにも多くの人の加勢があってできることで
お互いに気持ちをもって理解し合い協力しないと難しい問題にもなります。
 まずはお念仏の心で私にできることを精いっぱいさせていただくことが大事だと思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.27)
 
梅雨になります
 今日は朝から大変蒸します。
天気予報では今日からずっと雨マークでいよいよ今日から梅雨に入るということです。
これまでで一番遅い梅雨入りだそうです。
 
 最近は気象庁が梅雨入り宣言を公表しなくなりました。
というのは梅雨入り宣言したとたんに晴天が続いたり梅雨明け宣言をしても長雨が続くとかいうことがあって
気象庁に文句を言う人がいたりということがあったそうです。
 
 ただこれは気象庁のせいではありません。そのことはみんな知ってはいます。
自分の都合に合わせて天気も良い悪いと見る私たち人間の身勝手なものの見方に問題があります。
 天気は自然現象で人間がどんなに偉くなっても天気を都合の良いように変えることは到底できません。
 
 水は自然の恵みです。私たちが生活するうえで水は決して欠かすことはできません。
昨日のニュースでは田植えをした田圃にひび割れができたりとかダムの貯水量が減って心配だということでした。
 
 雨を待ってる人がいらっしゃるということです。
昔は雨乞いをして神仏に降雨を祈り願ったと言い伝えられています。
雨乞いをして雨が降ればいいのでしょうがどうでしょうか。
 
 雨は降る時は降って降らない時には降りません。
これは大自然の摂理であり真実です。
 
 ずっと長く雨が降らなかったら私たち人間はみんな死んでしまいます。
そこは自然の営みでうまくなっているというのが自然の摂理道理ということではないでしょうか。
 
 そこに人間の手が入ることによって自然がおかしくなったと見た方がいいと思います。
地球温暖化の問題は次代に負の遺産を遺すことで現代を生きる私たちの責任で改善しなければならない喫緊の大問題です。
 
 私たちのこの身体も自然です。
自然の道理はたらきのなかに生きているのです。
 お釈迦さまは自ら生老病死の身を生きるなかで
生老病死の四苦を明かされ私たち人間が等しく背負う苦悩からの解脱の道を仏教と示してくださいました。
 
 生きることは老いること病むこと死ぬことだよとの自然の摂理です。
一方私たちはいつまでも若くありたい健康でいたい死にたくないと思い頑張って生きています。
 そこで思い通りにいかない我が身の事実に向き合うなかに苦悩し迷うのです。
 
 どんな人も等しく命終えていかねばなりません。
大切な方と別れなければなりません。
これさえあれば大丈夫を握りしめていた健康もお金も家族もこの世のすべてのことは死の前には無力です。
 
 我がいのちの真実のあり方に背を向けどこまでも自分の思いを中心に生きようと頑張る私たちを見てとられた阿弥陀さまは大きな悲しみのなかから誓願をおこされ「すべてのものを必ず救うそのまま救う」と南無阿弥陀仏となっておはたらきです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきにそのまままかせてお念仏のなかに日々生かされて生き
この命終えてそのまんま阿弥陀さまのお浄土に往生させていただき
苦悩から解脱して涅槃の仏にさせていただけると聞かせていただきます。
 
 南無阿弥陀仏の大きなおはたらきにあって
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちのいのちがこれからもずっとずっとずっとつながっていくことを
お念仏申して聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.26)
 
還骨となられてお寺の阿弥陀さまのおそばにお参りです
 昨日お葬式がありました。
西大分のご門徒の方で近くの斎場でお勤めをした後竹中の火葬場に向かわれます。
いつものように火葬場からお遺骨をお供して直接お寺にお参りしてくださいとご案内をしました。
 
 西大分から竹中までは高速で30分もかからないで行けるということです。
それで竹中から円光寺まで大変な大回りになりますがお参りに来ていただきました。
 
 20人ほどのご親族皆さんで火葬場に行かれ収骨されてそのままお寺にお参りされたということです。
実はこのお家は3,4年前に新しくご門徒になられたところです。
熊本の実家に居た一人暮らしのお母さんが亡くなりお家のお仏壇を引き取ることで円光寺とのご縁ができたということです。
 
 昨日皆さん初めてお寺にお参りされたことだと思います。
わずかな時間のご縁でしたが、皆さんお寺の本堂にお参りされてどんなことを思われたのでしょうか。
 
 どんなに大きな体の人もみんな等しく4、5寸の壺に納められ
そのお遺骨を私が胸に抱えて阿弥陀さまのおそばにご安置してお勤めをさせていただきます。
 
 お浄土参りです。
私たちのこの目に見える形はお遺骨ですが
確かに確かに南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に往生されたといただきます。
 
 私たちが南無阿弥陀仏のお救いのご法義を聞かせていただけるのはここです。
お寺の門を通って阿弥陀さまのお浄土にお参りさせていただけるのです。
 そしてお浄土に往きっ放しではなく南無阿弥陀仏となって私たちのところに還って来てくださると
聞かせていただきます。
 
 昨日お参りの皆さんの口からナモアミダブツの声が出ていたかどうかわかりませんが、これからです。
これから七日七日の中陰に始まる仏さまのご縁をいただくなかに
ナモアミダブツとこの口からお念仏の声が出てくださるのです。
 
 お念仏の声となって先に往かれた大切な方がご先祖有縁の仏さまがいらっしゃるのです。
私と一緒に共にいらっしゃるのです。南無阿弥陀仏といらっしゃるのです。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
これから私たちは日々お念仏申す生活をさせていただけると有難くいただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.25)
 
7回忌と3回忌のご法事のお勤めをさせていただきました
 昨日7回忌と3回忌のご法事がありました。
それぞれの年忌でご法事の趣が異なるように思います。
 
 7回忌といいますとご往生されて6年が経ちます。
6年といえば小学校に入学した子どもさんお孫さんが6年生になって卒業するという時間が経ったということです。
見るからに子どもは成長いたします。変わっていきます。
 諸行無常の世にあってあらゆるものが日々刻々と変わり行くなかで
変わらない真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただく有難さを思います。
 
 3回忌のご法事のご縁です。
多くの人がお参りされていましたが、これまでお会いしたことのない若い方が目立ちました。
 「この中で一番遠方の方はどなたですか」と尋ねましたら「東京です」と初めて会うような若い方でした。
後から施主の方に聞きますと妹の子どもさんで昨日のご法事の方のお孫さんだそうです。
 大分の近くに住んでいるのではなく3回忌のご法事に東京から帰ってみえたということです。
帰って来いと言われたのか自ら帰って来たのかわかりませんが
おじいちゃんとの懐かしい思い出があるんだなと思いました。
 
 3回忌の次は7回忌で4年後になります。
ご往生なさって2年間の中に何度も何度も仏さまのご縁をいただきますが7回忌までは4年あります。
 来年は4回忌で5回忌6回忌と毎年祥月のお勤めをされてもいいのですが
方々からご縁の方々が集まって昨日3回忌のおつとめができたということことの有難さ尊さを思います。
 
 ご一緒にご法事のお勤めをさせていただけるということです。
先に往かれた方が本当に喜ばれることではないかなと思います。
 私たちに仏さまのご縁をつくってくださるということです。
日頃仏法を聞くことが難しい私たちを仏さまの御仏前に座らせていただけるのです。
お念仏を申させていただけるのです。仏さまのみ教えを聞かせていただけるのです。
 
 その仏さまのみ教えは「ただ念仏一つで救われる」南無阿弥陀仏のお救いの法です。
私たちが救われていくお浄土には懐かしい方々が往ってらっしゃってまた再会できると聞かせていただきます。
 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに共々に生かされてあることを有難くまた頼もしく思います。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.24)
 
仏さまのご縁に遇わせていただく日曜日の朝です
 日曜日の朝です。
仕事をもたれている方は平生の日常とは違うということで、今日の朝を迎えられたのでしょうか。
 
 毎日6時に梵鐘をついています。
平日につく6時の鐘と日曜日につく6時の鐘とでは、人によって鐘の音が違って聞こえるのではないでしょうか。
 平日朝6時の円光寺の鐘が生活の中で意味あるものになっていることもあると思います。
鐘の音を合図に朝起きて身支度をして朝ご飯を食べてそして職場に学校に行くということでしょう。
 ただ日曜日の鐘ということになりますと、もうちょっと眠たいなという思いで聞いてらっしゃる方もあると思います。
 
 お寺の梵鐘は時刻を告げる鐘ではなく法要前の合図の鐘なのです。
法要が始まる一時間前に撞くのが本来の梵鐘のあり方です。
そろそろ準備をしてお寺にお参りしましょうという鐘、お誘いの鐘なのです。
 
 そして6時半に喚鐘が鳴りますが、いよいよこれからお勤めが始まることを告げる鐘です。
この喚鐘の喚は喚ぶという意味があります。
 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声を何度も何度もガンガンガーンとこの耳に届くように響かせてくださるのです。
それこそやかましいと聞く人もあるかもしれませんがどんな人の耳にも届いてあるのです。
 
 ナンマンダブナンマンダブと何度も何度も繰り返し繰り返し巻き返し巻き返し
私のところに届いてくださる阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。
 お念仏の声に喚び目覚めさせていただいてこうして皆さん今日もお朝事のご縁にお参りをさせていただけました。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきの有難さをまた日曜日の朝のご縁に深く味わわせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.23)
 
 
大切な方とお別れする悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただきましょう
 昨日の夜電話でご門徒の方が亡くなったというご連絡でした。
遠方の方でこの後臨終勤行にお参りをしてこれからのお通夜お葬式のことをご相談いたします。
 
 4年ほど前に新しくご門徒になられた方で名簿をみましたら私と同い年です。
私たちはいつどのようなことでこの命を終えていくのかわかりません。
若い人でも健康な人でもどんな人も例外はありません。
 
 まさに無常の世にあって私たちは仏法という大きな中心依りどころをいただいています。
その仏法を聞かせていただきますと私たちは皆さん人の命を終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つでどの人も阿弥陀さまのお浄土に生まれて仏にさせていただくというのです。
 
 このこと一つ聞かせていただきます。
仏さまは仏法聴聞のご縁をいただけよとお勧めですが
自分のことで精いっぱい生きることで精いっぱいの私たちは中々仏さまのご縁に遇うことが難しいのです。
 
 大切なお方とお別れする悲しみのご縁ですが、そのまま仏さまのご縁といただきましょうとお話させていただきます。
仏さまのご縁としてこの私が仏法を聞かせていただくということです。
 仏法を聞かせていただきますと、先に往かれたお方をお浄土の仏さまとして敬い仰いでいけるのです。
この私をまさに命がけで御仏前に座らせてくださり仏法聴聞の尊いご縁をつくってくださったった仏さまです。
 死んだらお終いではなくこれからも仏さまとなって南無阿弥陀仏のおはたらきで
後にのこった私たちを見守り導いて南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに共々に生かされて生きてあるということです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.6.22)
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